欺瞞としての反米

http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1110537278566/index.html

秋葉忠利広島市長による今年の「平和宣言」はたいへんすぐれた内容だと思うが、そのなかでも、とりわけ意義深いと思ったのは、次のような箇所である。

14万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、白血病甲状腺癌(こうじょうせんがん)等、様々な疾病に襲われ、今なお苦しんでいます。


それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。


しかし、その中から生れたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。「こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ」と、忘れてしまいたい体験を語り続け、三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来(みらい)永劫(えいごう)忘れてはなりません。

原爆により多くの人命が奪われただけでなく、「死を免れた人々」も、病苦や差別、そして制度の不備のために苦しみ続けることとなった。
差別や偏見、また法・制度による救済がなされなかったことは、この人たちが社会的な暴力にさらされつづけたということである。そのような暴力的な社会、また暴力的な国家に、この人たちが生きざるをえなかったということである。
たとえばケロイドを疎まれて差別され、就職や結婚が出来ないような社会、それが十分に救済されず、60年以上も放置されるような国の仕組み、そういうもののなかに、この人たちは置かれてきた。
その社会や国家全体の暴力性、そして存続は、戦争を引き起こした暴力、また原爆を投下する暴力、さらにそれを正当化する(日本やアメリカの)政治家が今も体現している暴力と、異質なものではない。


日本の社会や国家は、過去も現在も、被爆した人たちに対して加害者だ。
この事実を認めることを経なければ、「被爆国」として日本が何事かをなせるはずはない。
それ以前に、「被爆者」をはじめ、自国のなかの、また外の、過去と現在の多くの被害者たちは救済されない。


いま世間では「パートナー」「友人」としてのアメリカに、非は非として直言することが、より望ましい日米関係を作ることであり、国益にもかなう、といった言い方が広まり始めている。
相対的に利巧ではあっても、根本的には愚かな発想だ。
アメリカの非をきちんと見つめ、責めるということは、日本自身が犯してきた、いまもあらためていない暴力や犯罪性を不問にしてよいということではない。
アメリカに対する批判は、戦前・戦中の国家体制と日米同盟の継続を含む、日本自身の国のあり方への批判とまっすぐにつながるものでなければ、結局は欺瞞にすぎない。