また『自由の平等』への覚え書き

立岩真也著『自由の平等』。
おもに後半について感想を何度か書いてきたが、この本の中心というべき「分配」の問題、そしてそれに関連してリバタリアン的な「自由」の概念への批判が書かれている前半については、自分の関心をどう結びつけたらいいのかが、よく分からない。
とりあえず、まとめることをしないで、思いつくことだけを書いてみる。


まず、立岩の分配についての基本的な考え、「働ける人が働き、必要な人がとる」という考えには、異論はない。
これは、生産と所有とを分離する考え、さらに根本的には生産も分配も人の生存という目的のための手段以上のものではないとする立岩の考えから、必然的に出てくるものと思う。

生産は生存のための手段ではある。そして/あるいは楽しいことであったりする。それ以外にはないはずだ。これ以上のものとするべきでない。これが基本的な場所となる。存在のために手段があるのであって、その逆ではない。(p89)


この主張は明快だ。
そして、この主張の出てくるところは、自由や平等についての彼の主張の出てくるところと同じだ。その特徴は、自由にせよ平等にせよ、近代的な「個」から出発して考えられてはいないということだ。
ある人にとって自由であることが、他の人にとっては不自由のなかに置かれ続けることを意味することがある。また、ある人にとって剥奪を免れることが、別の人にとっては剥奪を受け続けることを意味することがある。
しかしこれは、たとえばリバタニアンが考えるものとは異質な、非対称で複数的な存在のあり方、社会的な生のあり方だ。
その緊張関係にある他者に対して、その生存を保障し、その自由を確保するという仕方でのみ到達できるようなものを、著者は「自由」と呼び、おそらくは社会的な生と呼ぶだろうからだ。
ここに、この著者の考えることの基盤があるという感じがする。
この場所は、近代的な個と、近代的な私有の概念の支配する場所とは、別のものだろう。つまり、「私」と「他人」との境界の引かれ方が、ぼくが日常的に見知っているものとは大きく違っている。立岩の社会的な発言は、その場所から発されている。
そこは、近代的ではないが、同時に共同体的な場所とも、やはり違っている。一口に言えば、他者によって開かれているような空間(社会)だ。


自由は、すべての人にとっての自由でなければならない。
新自由主義」の唱える自由は、多くの人々から生きることの根本的な自由を奪い取るものである。つまりそれは、誰にとっても、生きるために必要なほんとうの「自由」ということとは違っている。私自身や他人の生を「手段」のレベルに閉じ込めてしまうものだから。

Xが私でない人Bを認めなくてもA自らは実際上の不利は被らないかもしれない。しかしそのことによって私は私が存在していることがそれだけで認められているのではないことを知る。私は人が査定されそれによって受け取りや評価が決まるのを見る。そのようなあり方が私が生きたいように生きることを掘り崩す。そのような世界には私はいたくないと思う。(p137)


ところで、立岩が言っていることのうち、もっとも論議される点は、(分配を「贈与」と規定した上で)分配が行われる方法として、自発的な贈与よりも強制が、それも国家による強制が望ましいとしている点だろう。

ここで主張される所有の規則は、贈与を強制する。(中略)強制力を介在させた分配を行うべきだと主張する。同一の場に権力・強制力を及ぼせるのは単一の主体である。次に、その単位としては現在は国家があるだけだから、現状では国家による分配がなされるべきである。しかし、国家という単位では十分な分配はなされないから、その単位はより拡大したものであるべきである(p138)

個別の自発的贈与がより望ましいことだと考えない。それは恣意によって生存が保持されるということであり、それを認めるべきでないと考える。(中略)自分が生きたいと思い、それを認めてほしいという主張は、その主張に内在的に、義務として私を認めることを人々に要求する。その要求は、あなた方の都合は様々あろうけれど、私のあなた方にとっての有用性・無用性と別のところに私の存在を置くようにという要求であり、その意味であなたのあり方を抑え、私を認めることを義務とすることを受け入れるべきだという要求である。(p139)


国家のことをちょっと脇に置くが、この「義務」の要求の主張は、これもやはりたいへん明快である。
ここで「私」といわれているのは、もちろん聞き手にとっての「他者」のことだろう。そういう他者の呼びかけの対象として、著者は「社会」というものを考えているといえばいいか。
立岩が言っている(国家による)「強制」というものが、元来(物理的な意味で)外在的なものではないことは、逆説的だが、ここから明らかであると思う*1


そうすると、著者にとって、自由と強制という問題系が、所有と分配という問題系と絡み合っていることがわかると思う。
義務も強制も、ここでは内発的なものとして考えられている。それは、この著者における所有(私有)の概念が、つまり主観的な生の主体である「私」というものの領分が、われわれの知っているものとはずいぶん違っているからだと思う。


やっぱり『私的所有論』読んでみよう。

*1:本書第三章の注のなかには、別の論者が用いた「内発的義務」という概念にも言及されている