栗田隆子「”ないものとされたもの”これくしょん」

今回も雑誌『フリーターズフリー』より。


この文章は、あるのに「ないもの」とされてきたものをとりあげて書く、ということを目的としているそうである。書くことによって、それが「ある」ということを言葉にしたい、ということである。
なぜ、あるのに「ないもの」とされるのか。それは、それが「ないもの」とされることによって、この社会とか、この私といったものが安定し円滑にまわっていくからであろう、とひとまず考えられる。
だから、「ないもの」とされているものを「あるもの」だと認めることには、おそれがともなう場合がある。ただし、このおそれは、常に「不当だ」といって片付けられるものだとも限らない。

ああ、そうか、この三〇代女性の生きがたさ、行き詰まり感、よるべなさには、言葉もないということか。(p160)

女が仕事もなく、男もなく、生きていくこと。それは肉体的に生き延びられるのかという問題と、社会的承認ないしイメージの欠如という二つの困難を抱えるということだ。その困難さを「母」も「キャリアウーマン」もおそらくは体で知っている、ないしはそれらの困難を抱えないようにしてきたからこそ、その困難の持つ深みを恐れている。恐れているからこそ、「どうするんでしょうね」としか語れない。この本の持つ一番の意味はこの「どうするんでしょうね」の声にあるといっても過言ではない。この声の裏にある怯えに対しどのように答えることが出来るだろうか。(p160)


ぼくが、この人の文章でもっとも心を打たれるのは、「ないもの」にされてきたものを言葉にするという行為が、自分とは違う立場、ときには抑圧的な立場に立っているかもしれない人たちとの連帯の可能性を探るという目的によって貫かれているように思えることだ。
上の引用文で、30代女性フリーターである筆者自身のような人たちを「ないもの」にしかねないような発言者たち(上野千鶴子信田さよ子)の「この人達どうするんでしょうね」というひと言を、筆者は反駁や非難によって撃つのではなく、「困難」と「怯え(恐れ)」の共有を通しての他者との連帯の可能性を開くものとして、深く受けとめようとする。
おそらく、「ないもの」とされてきたものが持つ力とは、それなのだ。
「ないもの」とされてきたものは、たんに「あるもの」となることによって「ないもの」を新たに生み出す構造(対立、分断や秩序、権力)を再生産するのでなく、「あるもの」と仮にされているものの虚構性を穿つ。そこにはじめて、「ないもの」とされてきたものだけが切り開きうる連帯の空間が見えてくる。見えるかもしれない。

痛みは痛みとして言葉にしなければならない。ただ、その痛みに淫してもいけない。痛みの中に己の実感を求めることは何より危険だから。最も無意識かつ強烈な自己中心となるから。「世界の中心で」私は生きているわけではない。とはいえ、世界の一部を占めている。見たいと願い、祈れば、見えてくるものがあると信じること。そこからこの「これくしょん」は生まれた。(p150)

そのような私の知人、友人ないしすれ違ってきた女性達こそが、「フリーター」と呼ばれる働き方をしてきているのだ。より正確に言えば、フリーターと呼ばれる働き方をしつつ、なおかつ社会的承認の欠如という困難を男性とは違う形でより濃厚に抱えこまされている。(p152)


「ないもの」とされ続ける自分の痛みを、隠すことなく見つめることによって、そのことを基盤として、同じく社会のなかで「ないもの」とされ続けてきた他者たちの存在が見出される。たとえば「母」が、あるいは「キャリアウーマン」が、同じ困難なり怯えを持つ存在として、はじめて筆者のまえに立ち現われることになる。
これは、自らが属する「女性」という集団的な同一性の発見ということとは、どこかが違う。
発見されているのは「女性」という実体ではなく、社会のなかで(ある仕方で)「ないもの」にされ続けてきた、(私と同様の属性を持つ)他人たちの存在だからである。


女性フリーターという立場を、この世界の「問題」を見ようとするうえでは、ある意味で(もちろん逆説なのだが)「贅沢な立場」であると筆者は書いている。また「親の資産を使える贅沢な立場」に自分はあるとも書く。
そして、『だからこそ見えてくるもの、それを書きたい。』(p155)と書く。
そこにあるのは、自分が生きることになったこの世界、そして他者たちへの、深い敬意のようなものだろう。