せざるをえないこと

きのう書いた電気工事のおじさんの話だが、最後に「死にたいのはこっちだよ、と言いたくなるよね」と、ぼくに同意を求めたのだ。
その、一番肝心なことを書くのを忘れてた。
年老いたお母さんの世話がたいへんで、切れてしまうこともある、という話である。
その言い方から、ぼくと違って、この人はほんとうに優しい人なのだろうと思った。


ところで考えてみると、ぼくはたしかに「せざるをえない」から母の世話をしているわけだけど、これが家族の場合には「せざるをえない」ことをするというのは自明のこと、もしくは美談のように言われるが、これが他人との関係となると、「せざるをえない」ことであるということを否認してしまい、なにもやらないで平然としていても、許されることが多い。
ぼくの場合も、他人という以前に、身近なところに色々な不如意を抱えている親族などがいるのだが、積極的に手助けをするということはない。親に限って「献身的に」(じゃ、ないんだけど)というのも、ぼくの場合に限ってはどこか身勝手な話ではある。
まして、相手が見知らぬ人となると、「せざるをえないこと」という発想自体が滅多に浮かばない。考えればこれは、おかしなことである。


そして、もっと大事なことは、そういう個人の心がけの問題とは別に、社会全体が「せざるをえないこと」を否認しておくことが当たり前、そうでなければうまく回っていかないかのようなシステムになってることだ。
「せざるをえないこと」の第一は、その現実(システム)を放置しないことだろう。