『<野宿者襲撃>論』関連の補遺

これは最初に書いておくべきだったかもしれないのだが、生田武志さんの『<野宿者襲撃>論』について書いたぼくのエントリーに、それぞれコメントとトラックバックをくださったkingさんとmatsuiismさんのお二人は、それぞれ同書に関連してすぐれた記事をご自分のサイトに書いておられて、ぼくは自分のエントリーを書くにあたって、生田さんご自身のサイトの文章ももちろんだが、このお二人の書いておられることからの影響を強く受けていたと思う。


このうちmatsuiismさんは、たびたび同書に触れてエントリーを書いておられ、特にこちらのエントリーには、ぼくはすごく影響を受けた。

http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20060216

自分のエントリーのなかで、「正当な怒り」によって、自他に対する破壊的な暴力がポジティブな連帯へと転換される、みたいなことを書いたと思うけど、生田さんの本にはそういう論理ははっきり示されていなくて、ぼくがああいう解釈をしたのは、自分の周囲の人を見ていて感じたことと、酒井隆史の『暴力の哲学』や、このエントリーを読んだことによるものだった。


また、kingさんのエントリーは以下の二つだが、

過剰適応の症状としての暴力――「〈野宿者襲撃〉論」生田武志・1

「厳正なる公平性」という不平等――「〈野宿者襲撃〉論」生田武志・2


この「2」のなかにある、「勤勉」と「怠け」という問題については、ぼくも上記の自分のエントリーの最後のところでそういうことを書こうとしたのだが、やはりすごく書き方が難しいと思った。
それはなんといっても、野宿をしている人たちが「怠け者だ」という偏見がひどいから、ということがある。以前に支援をしている人から、野宿者の人のなかには、生活保護を受けたがらない人が多いという話を聞いたことがある。それは、よく言われる「スティグマ」という問題もあるだろうが、「どんなに困窮して年老いても他人や制度の厄介にはならない」という強い意志を持っている人が、特に年配の方のなかには多いということらしい。生活保護は「制度のご厄介」ということではないと思うが、とにかくそうした「自立心」の強い人が多い、ということらしい。だから子どもなどと一緒に暮らさず、一人で生活を営んでおられる方もおられる、ということがあるのだろう。


この「自立」という概念をどうとらえるかもすごく難しくて、やはりkingさんが、書いておられるような問題も、きっと支援の現場ではあるのだろうと想像する。
たとえば、「自立」というのは、現状の資本主義のシステムに入るということなのか。
行政側の考え (これは非常にいい場合だろうが) としてはそうなのだろうが、野宿者の人一人一人や、支援の人たちそれぞれが考える「自立」は、きっとそれぞれ意味合いがちょっとずつ違うんだろう。
そこで「分断」というよりも、小さな気持ちの行き違いや、それを無理に統合しようとして起きる軋轢とかは、必ずあるはずだ。


これに関連して、何度も書いてきた1月30日の行政代執行のときにも、その場に留まって自分のテントを守るためにたたかう(抵抗する)人もいれば、そうはせず自らそこを去る人や、行政側の施設に入る人や、個々色々なケースがあったらしい。そのときに、どの人が一番前向きだったか、なんて考え方はまったく意味を持たない。
そこを踏まえて一人一人のことを考えられるということが、ほんとうの(精神の)「抵抗」ということだろう。
これはたぶん、「自立」ということを考えるうえでもある程度当てはまるように思う。


しかし、ぼくの関心は別のところにもある。
たとえば「怠ける」ということが、労働者の自己管理というか、ある種の抵抗のあり方だ、みたいな考え方もあるが、これもシステムの枠内にある考えではないか。同様の意味で、文化論的な「怠け」賛美にも、ちょっと違和感がある。
ぼくが考えたいのは、もっと極端なことで、どういう意味でも自立して生きたり戦ったり(抵抗したり)したくないという人は、やはりいるはずで、その人たちの内面的なものをどういうふうに考えたらいいか、ということだ。
つまり、それは社会の抑圧、つまり本人の存在に対する否定的なメッセージが内面化されているのだから、それを解除してなんらかの意味でポジティブに生きてもらうべき、という考えもあるだろう。だが同時に、「生きない自由」とは言わないけど、そこから生まれる非常に受動的な生のあり方の可能性みたいなものを、「ポジティブ」という言葉に吸い込まれないで、なんとか掬い取っていけないものか、とも思う。
他人事みたいに書いてるが、これはほんとは、ぼく自身の生の問題なのだ。


それから、ついでにもうひとつ書いておくと、たまたま日曜日に、以前書いたこちらのエントリーについてメールをくださった方があり、考えたのだが、今は社会運動というか、運動的なものと、仕事とか学生生活という一般的な日常との境目が曖昧になって混じりあってきてる時代じゃないかと思う。
これは、別に運動が昔より元気があってせり出してきたためではもちろんなくて、逆に仕事や学生生活のほうが不安定化し液状化現象みたいになってしまったためだ。
正社員もフリーターも大学院生も学部生も、日常のなかで何とか元気に生き延びていこうとしたら、嫌でも運動的なことと触れ合わざるを得ない時代になってきてるんじゃないかと思う(共謀罪のような法律が作られようとしてるのも、そういう現実に関係してるのだろう)。
ぼく自身は、うつぼ公園でのことを読んでもらっても分かるように、労働も運動もまったく駄目な人間で、「運動論」みたいなものを書く能力も資格もないんだけど、こういう時代だから、そのことについて少しは考えないわけにいかないし、何か言わないわけにもいかないのだ(スミマセン)。
つまり、「運動」といっても、特殊なことを書いてるわけじゃなくて、社会全体のプレッシャーに飲み込まれないでどうやって生き延びていくか、みたいなことなんだけど。
でも現実には、運動自身が、そのプレッシャーになってることが多いからなあ。