妖怪ぬらりひょんの逆襲

以下に書くことには、民俗学的、文献学的、もしくは言語学的ないかなる根拠もない。筆者のたんなる想像である。


アニメの「ゲゲゲの鬼太郎」にも出てきた、「ぬらりひょん」という名の妖怪をご存知の方は多いだろう。
ウィキペディアWikipedia)』には、こういうふうに出ている。

ぬらりひょんは、日本の妖怪。漢字表記は滑瓢。ぬうりひょんとも。


外見は、特徴的な形状をした禿げ頭で、上品な着物姿の老人。忙しい夕方時などに、どこからともなく家に入ってきて、お茶を飲んだりするなどして自分の家のように振舞う。人間が見ても「この人はこの家の主だ」と思ってしまうため、追い出すことができない。妖怪の総大将とも言われているが、これは後付け設定のようである(が、ゲゲゲの鬼太郎を始めとする数々の作品の影響により、このイメージは完全に定着しつつある)。


つまり、人々が忙しくしている時間帯に、どこからともなくぶらりと家のなかに入ってきて、堂々とお茶を飲んだりして我が物顔に振舞う、妙なおじさん、ということである。
さて、この名称だが、漢字表記は「滑瓢」と書かれているが、日本語の音としては、どうも奇妙である。この呼び名の方が先にあり、漢字表記は、音と妖怪のイメージを合わせてふられた当て字ではないだろうか?
そうすると、これは何語か?
「ひょん」という言葉は、ぼくは朝鮮語ではないかと思う。この音に当たる「형」(ひょん)という語は、今でも非常によく使われる敬称のようなものであり、男性が同性の年長者を親しみを込めて呼ぶときに、「兄貴」みたいな感じで使われる。また名前の後にこの言葉をつけ、「何々兄」という意味で「何々ひょん」というふうに発音するのである。
では、「ぬらり」とは何か、ということだが、手元にある朝鮮語辞典(小学館発行)を見てみると、日本語の「ぬらり」の音に該当しそうな単語はないのだが、同じ母音ではじまる「のらり」の音に当たる名詞「노라리」なる語が出ている。その意味はというと、「のらりくらりと日を過ごすこと」とある。
日本語の「のらり」がこの朝鮮語に由来するのか、その逆なのか、いまはひとまずどうでもよい。
ともかく、「ぬらりひょん」とは「のらりひょん」が訛った朝鮮語から来ており、その原義は「のらりくらりと日を過ごしている兄貴」(ニート?)ということではないか、という仮説が成り立つのだ。


昔から居る日本独自の妖怪に、そんな名の由来があるなんて書くと、ナショナリストの妖怪マニアから攻撃されるかもしれないので、少し補強しておこう。
ぬらりひょん」が登場する古い資料の代表的なものというと、江戸時代の画家鳥山石燕作「画図百鬼夜行」だそうである。この時代に朝鮮語の名を持つ妖怪の伝承が日本の地方にあったなんて、考えられないと思うかもしれない。
だが、こちらの記事には、

岡山県瀬戸内海に現れる妖怪として「全国妖怪辞典」にその名がある。


とある*1
この点に注目したい。
評論家の柄谷行人は、ある対談のなかで、江戸時代に朝鮮通信使の一行が瀬戸内海のある島に立ち寄った(漂着した?)ところ、その島では朝鮮語が使用されていたので、まったく不自由しなかったという記録のあることを紹介して、近代国家の国境線が引かれる以前には、海上の交通路を通って、きわめて自由な人々の往来があったことの証拠としていた*2
つまり、少なくとも近世において、瀬戸内海の島嶼部と朝鮮半島(の、とくに沿岸地方)との間には、活発な人的交流があった可能性があるのだ。
実際に、「ぬらりひょん」のような飄々とした朝鮮人の「兄貴」か「親父」(このキャラは、どうも、済州島とかに居そうだが)が、瀬戸内のどこかの島内をブラブラしてたかどうかはともかく、そのような言葉なり伝承なりが、その地方に伝えられた可能性は、皆無ではない。


はじめに書いたように、以上はあくまでぼくの想像にすぎない。
ぬらりひょん」というと、ウィキの記事にもあったように、「妖怪の総大将」(いつも外来妖怪の頭目のような扱いになってることも妙である)という敵対的なイメージがいつのまにかついてしまった。
しかしもともとは、「客人神」と呼ばれる神から転じたものだとの説もあるそうである。
この妖怪の名前自体が、海を渡ってやってきた不思議な「客」への歓待を示し、またその「客」から伝えられた歓待の精神の伝承の物質化された痕跡であると考える方が、ぼくは好きだ。
まして、「のらりくらりと日を過ごしている」(ぼくのような)人や、そこに居るけど誰だか分からない人などが、後ろ指をさされたり、締め出されたりばかりしている、この時代には。


妖怪「ぬらりひょん」は、きっとぼくたちの希望である。

*1:ちなみに、ここに書かれている「ぬらりひょん」の語源の説明だが、肯定も否定もしにくいものである。

*2:この話の元ネタになる資料を、ぼくもどこかで読んだ気がするのだが忘れた