すり替えと温存

もう月が変わってしまったからなくなってるのかも知れないが、大阪の駅のホームなどで見かける、ポスターのこの標語が、どうも気になってた。


しない させない 就職差別   働くのは私! 私自身を見てください
http://www.pref.osaka.jp/fumin/html/12743.html




ポスターでは、サブテーマであるという後半の部分の方が大きく印刷されてたと思う。
そのどこが気になったのか、ポスターの現物を目にした瞬間の違和感を、字面だけだとどうも思い出しづらいのだが、感じていたことは、素朴に次のようなことだったと思う。


差別の「理由」とされるいろいろな属性、上記の大阪府のサイトによると、ここではILOの条約に書かれた「人種、皮膚の色、性、宗教、政治上の意見、民族的出身又は社会的出身」ということが念頭に置かれてるようだが、そういったものによってでなく、その人「自身」を見て選べ、という文意は、一見、筋がとおってるようにおもえる。
だが、属性によって差別されるということを問題にしているときに、たんに「それらの属性ではなく、私自身を見て選べ」というのは、それらの属性が好ましくないものだと認めてしまってるようなものではないか。
「ここでそれを言うのは、筋が違うやろ」みたいな感じをもったのだったと思う。


もちろん、「私自身を見て選べ」というメッセージに、「それらの属性ではなく」という意味が込められていないという解釈は可能である。属性から分離された「私自身」というものがありえないという考え方自体は、議論の余地はあるにしても不自然なものではない。その解釈をとるなら、上の標語の意味は「どんな属性を持っているかに関わらず、この私を見よ」という意味にとれる。それなら、これはたしかに「個人という価値の提示による、差別の否定」という意味合いをもつ。
だが、ここではどうも、そういう意味合いのメッセージには受取れないのである。
ここでの「私自身」には、その人の現実の生や、実際の差別という事柄に関与するような「属性」が付着していないということ、この「私自身」とは、具体的な「個人」とは無縁なたんなる抽象物にすぎない、という感じがするのだ。
どうしてであろうか?


おもうにそれは、後半の「働くのは私! 私自身を見てください」という言葉が、前半の「しない させない 就職差別 」という部分を掘り下げない、そのことを正面切って問題にしないための方便、すり替えであることが、薄々感じられるからである。
よくない現実を明るみに出さないために、そういう現実のあり方を変えないままにしておくことを隠された目的として持ち出され、ほめたたえられることになる価値としての「私自身」。その言葉の空虚さ。
この標語の気持ち悪さは、たぶんこの点に根本的な理由があるのだ。
つまりそれは、問われるべきものが不問に付されることによって、社会の根底にある否定的なものが温存されてしまうという、嫌な感触である。


だが、ここで考えたいのは、次の点だ。
さまざまな属性から切り離された「私自身」なるものは、はたしてたんなる抽象にすぎないだろうか?
たしかに、ILO条約に述べられているような諸条件によって就職を左右するような差別はあってはならない。だが、さまざまな「能力」(たとえば、視力や知的能力、作業適性)を属性の一種として考えるなら、そうしたものによって採用の是非を決めるということは、原則としては否定できるものではなかろう。そうでなければ、そもそも何のために就職試験(面接)をするのかも分からなくなる。
その意味では、能力としての属性によって就職が左右されることはほとんど不可避である。
重要なのは、立岩真也が『私的所有論』で述べていたように、その人の能力(属性)と、その人の存在の価値とは別物だということであり(だから「能力のみへの評価」自体は問題でない)、その異なる二つのものが混同され結び付けられるところに、根本的な「存在の毀損」と呼べる問題が生じてくる。
あらゆる能力や属性、たとえばある国籍や民族や、一定の視力や視力の欠如といったものが、その人の存在のかけがえのない一部をなす要素であるとしても、その人の存在そのものの価値は、それらと関わりながらも、それとは別の相にある。
能力に関して言えば、ある職業において必要とされる「能力」は市場における交換の対象とされてよい(だから、「労働力の商品化」そのものが問題だとは、かならずしもいえない)が、そのことの結果として、その人の「存在」、つまり生存そのものやその人が生きているということの価値の本質的な部分が損なわれてはならない。


上の標語は、その「存在の毀損」、存在そのものの価値の否定ということに結びつく印象を与えるのである。
この標語における「私自身」は、就職差別という「存在の否定」に結びつくような事柄の具体性への直面を避けるために持ち出された、薄っぺらな概念であり、それゆえに、採用の基準となる「能力」のなかに「存在」の価値や厚みが押し込められ、混同された表象、たんなる「労働力」に還元された人間(私)の姿を示すものだといえる。
ここでは、「差別」という形で表われた「存在の毀損」という社会の根底にある「否定的なもの」が、言葉のすり替え(差別を露呈させるべきところを、「私自身」という価値の称揚にすり替える)によって温存され、「能力」と「存在」との結びつけという別の形のなかにその「否定的なもの」が移行しているのだ。
就職差別という事柄の持つ否定性、またその事柄の具体性が空虚な標語のなかで忘れられ隠されるということ、そのことが「私自身」の能力や労働力だけでなく、その存在までも市場のなかで決定(交換)可能な価値としてしまうような今の社会の陳腐なイデオロギーを、この標語の後半の語句「働くのは私! 私自身を見てください」のなかに、込めさせてしまっているのである。


だがこうしたすり替えと温存の構造は、標語や一枚のポスターの中だけに存在しているものだろうか?