『フランドル』

ちょうど見られる時間帯の映画だったので、いそいそと梅田まで見に行く。
映画館に着いてから、「男性デー」で入場料が千円ということと、カンヌ映画祭のグランプリ(でいいのかな?)受賞作であることとを知った。


壮絶な映画という印象だが、十分理解していない点もあると思う。
とにかく、見て感じたことを少し書いてみる。


題名が「フランドル」とあるので、てっきりベルギーの映画かと思ったが、違うらしいということが、後半になってわかる。言葉はフランス語に似ているが、違うような気もした。しかし、家に帰ってたしかめると、フランス映画らしい。なら、あれはフランス語だったのか。
舞台はもちろん、フランドル地方らしいだだっ広い畑が広がっている場所である。
ああいう風景を、ふつうは「豊かな」大地というふうに言うのだろうが、そういう感じがしない。大地が区切られ整地されているということが、とても暴力的なことであるようにみえる。そういう映像になっている。


主役は二人の若い男女。
女性のほうはバルブといい、男性のほうはデメステルという名前。
もうひとり、ブロンデルという名の男が出てくる。
デメステルは農場を経営している。規模が大きいのだが、あまり豊かそうではない。
そして、どうしたわけか一人暮らしのようである(この役者は、目の感じが宇梶剛士にそっくりである)。
彼とバルブとは、セックスをする関係なのだが、バルブは彼のことを「恋人」というふうには思っていないと言い、酒場でデメステルの目の前で、他の男に声をかけられてどこかに行ってしまったりする。この「他の男」というのがブロンデルで、どちらかというとバルブはブロンデルの方にひかれるのだが、デメステルとの関係も続いている。それについて、デメステルのなかに重苦しい感情があることが描かれる。
このバルブという女性の独特な存在、三者の関係が、この映画のひとつの鍵のようになっている。
それはいわばフーリエ的な関係として描かれるのだが、同時に近代特有の「所有」をめぐる感情が、すでに挿入されているのだ。


じつは、上に書いた一連の出来事は、ほぼ一日の間に起きるのだ。そういうところが、とても不思議である。
そして次の日には、デメステルとブロンデルの二人は、兵士として「戦場」におもむく。
これがまた奇妙で、「令状が来た」と言っているので徴兵されたようでもあるが、どうやら志願制に近い形らしい。どういう理由で戦場に行くことにしたのか、よく分からない。なにか経済的なメリットでもあるのか?
ともかく、中東かサハラ砂漠のようなどこかの場所に彼らは派遣され、地元の人々と激しい戦闘を行うことになる。『フルメタル・ジャケット』を思わせるような壮絶なシーンが続くが、同時に夢のなかのような感じもある。


ここで、ひとつ気がつくことがある。
映画のはじめのところで、フランドルの広大な農地をバックにデメステルが一人歩いているショットがあった。戦場の砂漠を、彼を含む兵士たちが貧相な馬(ロバかな?)に乗って進んでいくシーンが、それとそっくり同じ構図なのだ。
それを見たとき、ぼくはあのフランドルの田園地帯が巨大な暴力をはらんでいるみたいに見えた理由が分かった気がした。ヨーロッパの大地を区切り整地した同じ暴力が、ある時代以後、中東や北アフリカの戦場でたくさんの血を流してきたのである。フランドルの大地の光景の下には、この血にまみれた砂漠の戦場の光景が見えていたのだ。


しかし、これはぼくの見方で、この映画にこめられている意味は、それとは違うものかもしれない。
ともかく、もう少しストーリーを紹介しよう。
二人の男が戦場に去り、フランドルに残されたバルブは、また別の男と関係をもったりもするが、ブロンデルの子どもを妊娠しているらしいことが分かる(堕胎したようなのだが、この辺の経緯がよく分からなかった)。そして、戦場で男たちが極限的な状況に見舞われ、人格的に「破壊」されるような目にあうにつれて、まるでそのことをテレパシーで体感してるかのように、彼女は精神を病んでいくのだ。
ここが、神秘主義的な感じになっているのだと思う。


じつは、この点が、ぼくには違和感が残った。
映画を見ているとき、戦場での出来事を直観していることが理由で、彼女の精神が崩れているのだとは思わなかった。だが、後になって考えると、どうもそうである。
そうすると、話の全部が神秘的となり、バルブの性格や行動も、いわば聖女か大地の女神のように映り、フランドルの大地もヨーロッパの自然の豊かさの表れでしかなくなり、サルトルが『ユダヤ人』の前半で批判したような嫌な本質主義的な物語のようにみえてくる。
つまり、平和な田園での生活が、戦争という「外部」の侵入によって侵犯され台無しにされたという、ただそれだけの話になる。


たしかに、この映画の「力」は、そうした本質主義的な解釈の余地を残す「危なさ」にこそあるのかもしれないが、そう考えるだけではやはり面白くないと思う。
平和だが単調で息の詰まるような「故郷」の風景のなかに、すでに織り込まれている「戦場」。静かで奇妙な三角関係のなかに、すでに挿入されている憎悪や暴力やミソジニー
むしろ、そうした日常に潜在するものが見やすく展開される場所としての、どこか実在しない砂漠の戦場。
そして、その日常のなかに、「荒廃」のようにも、「傷」のようにも、あるいは「救済」、いや「希望」のようにも存在する、不思議な女性バルブ。
この映画のメッセージの核心が、彼女の存在に込められていることだけは、どうも間違いないようだ。