『嫌われ松子の一生』

終わり近くに、川原から土手の上を旋回して川面を低空飛行で撮影していくような、不思議で雄大な映像が登場する。これは、どうやって撮ったのか、ほんとに分からない。
そのみごとな映像を見ながら思ったことは、よく夢の中で、これと同じ光景を見るということだ。
(以下、完全にネタバレ)


嫌われ松子の一生』は、九州の田舎を出てから不幸な男性遍歴をたどり、最後は50をすぎてボロアパートで周りから見捨てられた一人暮らしをしたあげくに、無残な死を遂げる女性の一生を、彼女の死後、甥である若者の目をとおして描いた物語だ。


全体の半分ぐらいがミュージカル仕立てになっていて、主演の中谷美紀は何曲も歌ったり踊ったりするし、CGも多用されている。映画というより、エンターテインメントという感じが強い。いや、むしろそういう現実を題材にした映画だともいえる。
つまり、悲惨な現実と、ディズニーランドみたいな空虚で夢に溢れたエンターテインメント、その両方を力強く生き抜き死んでいった、一人の女の人への愛情あふれるオマージュだ。


次々に不幸が襲ってきて、ものすごいDVを受けながらも愛し続けた男が目の前で自殺したり、別の男を殺して刑務所に服役したり、とにかくそんなことの連続なのだが、ヒロインの松子は、それらをすべてバイタリティーに変えて生き抜いていく。コメディータッチで作ってあるのだが、その明るさは空虚で、暴力を振るい続ける男たちの孤独と、それでも立ち直り、実ることのない夢を追い続ける松子の狂気じみたバイタリティーが、残酷なまでに描き出される。


松子が愛し追い求めたものは、男たちとの生活や愛というよりも、それをとおしてみることのできる夢の方だったともいえるだろう。
松子と男たちの間にあるのは、ものすごいディスコミュニケーションなのだが、そういう松子の悲惨な人生の生き様が、その死後、甥の眼差しによって肯定されるのである。
この肯定する甥の眼差しこそ、この映画のメッセージそのものだろう。


この映画を見ながら思い浮かべていたのは、去年見た韓国映画『親切なクムジャさん』のこと。あれも男がらみで刑務所に13年も服役し、「海外養子」としてわが子をオーストラリアにもらわれていった不幸な女性が主人公の映画だった。そして、どこか大仕掛けでディズニー映画のパロディのような作りになっていることも、この作品に似ている。
同時期に、よく似た題材で日本と韓国でこれだけ似通ったアイデアの作品が作られたというのは、不思議な感じさえする。実際この映画は、韓国にもっていっても結構ヒットするのではないかと思った。


ヒロインが「嫌われ松子」と呼ばれるのは、晩年、貧困と孤独のなかでの生活で精神まで病んでしまい、近隣の人たちから異形の人のように見なされて嫌われるまでになったからだ。生ごみだらけの部屋で、アイドルが出演するテレビに熱中し、分厚い束になったファンレターの返事をカップヌードルをすすりながら待ち続ける彼女。
松子のような女性は、いくらでもいたし、今も、これからもいるのだろう。
そして、ディスコミュニケーションに根ざした奇妙で独りよがりの愛と、商品化された虚構しか存在しない人生を、精一杯生き抜こうとする姿は、今や女性ばかりでなく、ぼくたち全てにとって他人事としては見られないものであると思う。
彼女の甥が、そういう彼女の不器用でおろかで悲惨な人生に投げた愛情溢れる眼差しは、だからこの映画を見るぼくたち全員の人生に対して向けられたものでもある。


彼女たちを祝福せよ。なぜなら、彼女たちは徹底して不器用でおろかであり、そこにこそ現在を生きるぼくたちが生の価値として見出すべき何かがあるから。
それだけがこの映画が告げていることだ。


ラストシーンで、実現することのなかった松子の人生の充足、彼女の欲望や願望と実人生とのありえなかった和解のイメージをスクリーンに見て感動するぼくたちは、実は自分たちの人生の空虚な実像と夢とをそこに重ねて見出し、いたわり、そして勇気づけているのだと思う。


俳優陣では、中谷美紀はもちろん代表作になるだろう熱演だが、ヒロインの弟を演じた香川照之が好演だったと思う。
あと、中谷美紀柴咲コウを最後まで見分けられなかった。


大阪梅田のナビオで見ました。

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