私たちの「身近な希望」としてのベジタリアン

日本に一時帰国中の友人、id:blackpawさんが、仕事の関係で関西に来られていて、わざわざぼくの家の近くまで訪ねてきてくれた。最近書いてるような事情で、あまり時間がとれなかったのだが、午後の数時間、連れ合いさんのランさんを交えて三人でお話した。
ぼくが口下手(書くのも下手だが)なこともあり、もっぱら日本語が猛スピードで上達中のランさんの話を二人で聞くような形になって、ぼくはとても面白く時を過ごせたのだが、通訳もしなくてはいけなかったblackpawさんはずいぶんくたびれたと思う。お疲れ様でした。


ランさんは、イスラエルの出身だが、アメリカの大学で日本近代史(植民地支配の問題など)を研究していて、いま日本に一時滞在して調査などをしてるらしい。有名な日本研究者ハルトゥーニアンの弟子になるそうである。
日本やアメリカの歴史研究の傾向(非政治性)への疑問や、日本の平和運動に関して、またグローバリゼーションへの抵抗とか、イスラエル学生運動と徴兵制のこと*1など、とても面白い話をしてくれたのだが、ぼくが一番強い印象を受けたのは、彼がベジタリアンだということだった(たしか、blackpawさん自身も、一緒に暮らすうちに段々そうなってきたと書いてたと思う)。


肉も魚もダメで、魚からとったダシのようなものもダメ。食べられそうなメニューのある店を探すのに、ちょっとだけ苦労した。ベジタリアンの人というのは、そんなに珍しくないんだろうけど、ここまで厳しく注文がつく方というのは、ぼくは初めてだったので、ちょっと戸惑った。
サンドイッチを注文したとき、うっかりハムが入っていることに気づかずに勧めて食べさせてしまい、恐縮したり。
まあなんというか、こちらの普段の日常生活の感覚からすると、ちょっとした窮屈さを感じることもあり、「これって、ちょっとした他者だよなあ」という思い。
ぼくは、はじめ宗教的な理由からかと思ってそう聞くと、そうではなくまったく個人的な信条みたいなものらしいが、そこを説明するのがあまりに面倒なので、聞かれると「宗教上の理由だということにしている」という答えだった。つまり、自分でもその理由を言葉にするのが、そして人に伝えることがとても難しい、ということだろう。
そして、見ていると、肉や魚を食べないということが、たんに「思想上の」ということよりも、それがいつしか体質になっているという感じを受けた。それは、主義や思想・信条というよりも、肉体化した倫理感覚みたいなものではないかと思う。


まあ、何と言ったらいいか、ぼくが感じたのは、いくらかの居心地の悪さとともに、軽い尊敬とユーモラスな親愛感の混じったような感じである。
自分は平気で肉や魚を食べていて、それを食べなくなるなんて、自分の意志では絶対にできないと思う。だが、そうしたものを「絶対に食べられない」という思想を持ち、それを体質化してしまっている他人がいるというのは、非常によく分かる。その存在は、ぼくのなかに、一種の「正義」に近いような像、暖かい灯火のような像を描く。


つまり、こういうことだと思う。
ベジタリアンというと、そういう伝統とか宗教とか、近代以前の価値観への、あるいは本質への回帰みたいなものを考えがちだが、いま多くの人たちをベジタリアンにさせているものというのは、近現代の、この社会の極端なあり方に原因があるのだと思う。
肉や魚を乱獲し、大量生産し、大量消費し、生命を商品化しという、そうした社会のあり方に対するひとつの反応として、ベジタリアンという生き方が、いわば肉体的に選択されて生じてくる。
その選択は、見ようによっては、たしかにひとつの「病理」に近い。だが、その病理は、この社会のなかでぼくたち「非ベジタリアン」が平然と肉や魚を大量消費しているという、より度し難い病理の、ネガのようなものではないか。
重要なのは、「どちらがより自然か」という問いではなく、「自然」な生や欲望がすでに存在しないという土台のうえに、ベジタリアンという身体的な選択(反応)が出てきているということだと思う。


ベジタリアンという生き方が、崇高なものや「真」であるということではなく、ぼくたち自身も、そういう反応の仕方をすることがありうるのだという解放感のような思い、この社会の仕組みにすっかり欲望を同化させて生きなくても、違う生き方がありうるのだという啓示、そういったことを、そこに感じるのである。
だから、ベジタリアンである他人は、見ようによってはユーモラス(滑稽)であり、また時には痛々しくもあり、病的にさえ見えるが、そしてその前に座って食事をしていると後ろめたいことも事実だが、それでも、その人たちは、どこかぼくたち自身の「身近な希望」なのである。




ついでだが、日本でベジタリアンというと、やはり思い出すのは宮澤賢治の「ビヂテリアン大祭」だろう。賢治の作品のなかでも、とくに宗派間の論争という色合いが濃いことには辟易するが、やっぱりその断片性、つぎはぎされた未完成さのような感じ(この作品は、ほんとに断片なんだけど)は、彼の多くの他の作品と同様に、強い魅力を放っている。

宮沢賢治全集〈6〉 (ちくま文庫)

宮沢賢治全集〈6〉 (ちくま文庫)


追記:そう言えば、ヒットラーベジタリアンだったということを、はじめて聞いた。自分がベジタリアンだと言うと、「ヒットラーもそうだったよ」と切り返してくる人がよくいるそうである(イスラエルで?)。まあ、どこの国でもそういう反応をしたがる人はいるものだろう。

*1:徴兵制の話は、よく韓国人の友人から聞くけど、やはり同じような印象。「軍隊に行くまでは自分はアナーキストだった」という言葉が心に残った。