他者としての「ひきこもり」

このことは以前に書いたかどうか忘れたが、ぼくはこれまでに何度か「ひきこもり」の経験者というような立場で大勢の人を前に喋ったことがある。そのころは、学生時代に学校に行かないことが多かったとか、卒業してからも普通に勤めている期間が短かったりとか、そういったことから、自分を「ひきこもり」という範疇にあてはめて考えることが妥当であるように思ってたのだ。
だがその後、とくにブログを始める頃から、「ひきこもり」と呼ばれる人たちの深刻な状況や生き方を知るようになり(直接お会いしたことはないが)、これはとても「自分の問題」として、つまり当事者的に話したり考えられるような事柄ではないことが分かった。
だから、「ひきこもり」についてぼくが書くことは、基本的には「他者」についての思いであり、考えである。


そのうえで、どうしても言っておくべきだと思うことがある。
それは、「ひきこもり」と呼ばれる人たち、とくにたいへん深刻な状態にあると思われる人たちは、社会を変えていくという意味では、そして他人や社会に対する働きかけという意味では、その「ひきこもる」という行為それ自体によって、すでに責務を十分に果たしているということ、だから、「何をなすべきか」という問いかけは、「ひきこもっていない」ぼくたちの側に突きつけられているのだ、ということである。
社会参加というとき、それが現状の市場経済の枠内で、生産や交換に寄与することだけを考えるのなら、たしかに「ひきこもり」と呼ばれる人たちが、そこで肯定的な役割を果たしていると考えることは難しいだろう。だから、このシステムの枠内で、この人たちの生存の問題を考えようとすれば、それは「生産への寄与」や「社会参加の代償」といった論理ではないところに、人が生存する権利を保障する手続きが必要となる。
だが、「社会参加」なり、社会的な生存という言葉の意味を、もっと根本的なところで考えるなら、つまりより良い社会を作っていくための働きかけを他人に対して行いながら生きる、という意味にとるのなら、「ひきこもり」の人は、「家族」を通して感受された社会の現行のあり方への違和を、自分の生の全体によって表現していることにより、その「働きかけ」を十分に行っていることになる。これが、ぼくの考えである。
『ひきこもりといっても、親が働いて扶養することによって生きているのだから、社会のなかで生きているのだ』という言い方は、言うまでもない当たり前のことであって、社会のなかで現に生きているからこそ、ひきこもりの人たちは、自分の存在のすべてをかけて、社会から「ひきこもる」という「表現」を、社会(われわれ全員)に対して行っているわけである。
それを受けて、ぼくたちがどうするのか。その「表現」を受け止めず放置するなら、ぼくたちは新自由主義者と何ら変わらないことになる。