全体性と無限・上巻了

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

全体性と無限 (上) (岩波文庫)


ようやく上巻を読み終えた。
はじめの方に何が書いてあったのか、もうよく覚えてないけど、一番気になったことをメモ。


それは、私の感覚的な在り様を示す語といえる「享受」と、労働や所有と関係付けられる社会的な生存を表すものとしての「分離」との間の関係である。
といっても、レヴィナスの場合、この両者は、異なる生のあり方ではなく、どんな生き方をしていようと、人の生はこの二つの相においてとらえることができる、ということだろう。
生存の感覚的な相を表す語が「享受」であり、社会的なあり方の相を示す語として「分離」があると、考えていいかと思う。たとえば、普通の意味で労働していてもいなくても、住むところを持っていてもいなくても、私は生を享受していると同時に、(程度の差はあれ)分離という仕方でこの世界に存在している。
そういう認識ではないかと思う。
先にも書いたように、レヴィナスは、分離を他者と真に関わる為の条件だと考えている。むしろ、「無限なもの(他者)の観念」が分離というあり方を要請するのだ、というふうに言うわけである。


さて、これもすでに書いたように、私は楽しいことだけを「享受」するわけではなく、どんなに苦痛に満ちた生であろうと、生きることそのものを享受する(愛する)、というふうに言われるわけである。
享受の根底にあるのは、生きていることそれ自体、私が生きるこの世界に対する根底的な諾(ウィ)である、とされる。
この意味で、私の感覚的なあり方である「享受」は、常に完璧に自足したエゴイズムである。
ところが、この「享受」はそれでも、ある不安、不確定性を抱えて震えているのだ、とレヴィナスは言う。
その理由は、「統御不能な未来」とか、「予測不能な未来」、「不確かな未来」というふうに言われているが、レヴィナスが「始原的なもの」と呼ぶこの世界の「存在」の、「測りしれない深さ」、不透明さを、自足のさなかにありながらも「享受」は感じている、ということらしい。
レヴィナスは、この「享受」が感じる不安、震えを、他者の存在ということと明確に切り離す。彼にとって、これは「他者」をめぐる事柄とは別次元の事象なのである。


この「享受」の震えについて、こう述べられている。

とはいえ、享受することにおいて身を震わせる<私>の至高性には、ある特別な点がある。その至高性は環境に身を浸しているがゆえに、影響〔環境の流入〕をこうむることになるのである。その影響の独特な面は、享受する自律的な存在が、じぶんが密着している享受そのもののうちで、じぶんではないものによって発見されたみずからを発見しうるということにある。(p334)


享受において、私は、この世に生きることに本源的、不可避につきまとっている両義性、他のものによって生を支えられていると同時に、脅かされてもいるという現実を、ひそかに感じとっているのである。
これは、レヴィナスにおいて、身体の定義とも重なる。

そのように両義的なかたちで現実に存在しているものが、身体なのである。享受することの至高性は、裏切られるかもしれない危険を冒している。享受がそれによって生きている他性によって、享受は楽園からあらかじめ追放されているのだ。(p335)


レヴィナスにとって、身体は、必ずしも肯定的なものと考えられていないことが、ここでうかがわれるかと思う。
ここに言う「他性」とは、彼の語る「他者」とは、まるで異なるものだからである。


さて、享受とはこうした性格を持つのだが、「住みか」を持つことによって可能になる私の社会的な生存の相(分離)については、次のように述べられる。

住みかによって獲得と労働が可能となって、〔享受に対する〕こうした裏切りが宙吊りにされ、繰り延べられる。生の不確かさを乗り越える住みかとは、生が直面しかねない支払い期限を普段に繰り延べるものである。(中略)この最初の繰り延べによって、時間という次元そのものが開かれるのである。(p336)


私は、「住みか」を持ち、社会的な存在となることによって、分離を確定したものにし、享受が感じている「生の不確かさ」の感覚から解放される。
私はそれによって、「自然的な生存」から手を切って、隔離された内部性の空間のなかに生きる(守られてある)ことが可能となるのだ。
やはり先に書いたように、レヴィナスは、このことを肯定する。
この分離、この隔離、私の周囲にある存在からの切断が正当化されるのは、それが真の他者との関わりを可能にする行為だと考えられるからである。つまりここでは、倫理の名において、分離的な生のあり方が称揚されているのである。


だが、ここで考えられている「他者」とは、どのようなものだろうか?
レヴィナスは、私の周囲に存在して、私の生を支えると同時に脅かしもするような存在の「他性」と、分離を条件としてのみ関わることが可能になる「他者」とを峻別する。
むしろ、前者の切捨てによってのみ、後者との出会いは可能となる、というかのようである。
そして、後者の意味において特権的な他者とは、「人間」に他ならないことが明言されている。


このような「分離」という社会的な生存のあり方においては、「享受」が感じていた「生の不確かさ」の感覚、不安というものは、消去されている。
それは、「繰り延べられた」というよりも、たんに排除(否認)されたかのように思える。
「私の生を支えると同時に脅かしもする」という仕方で私を取り囲み、感受されていた「他性」は、倫理的な要請の名において、「住みか」の壁の向こうに追放され、それがもたらしていた不安と共に置き去りにされて、省みられることはない。
その理由は、おそらく、それが「人間」的だと見なされないからである。だが、そのことを、最終的に決定できるのは、誰であろうか?


無論、レヴィナスは、なんらかの属性や関係性によって、人が「他者」であるか否かが決められる、というふうには考えないだろう。
異邦人や難民が他者であるように、私の家族も他者でありうる。
これは彼が、その他者観から、いわば水平的な関係の次元を追放したからである。
他者はただ、垂直的な関係においてのみ到来する。
だがわれわれは、またわれわれの身体は、ただ垂直的にのみ、つまり精神的にのみ存在するわけではない。


レヴィナスが、分離の壁の向こうに切り捨てた、「人間的」とみなされなかったもののなかに、肝心な何かがあるだろうことを、今やわれわれは知っている。