欲望としての記憶

たとえば、どうかすると認知症に近いのではないかと思われるような印象の高齢の人が、なにかのきっかけで過去のあるときの鮮明な記憶を語りはじめる場合がある。さらに驚かされるのは、それが繰り返されるたびに、情景や事柄の細部まで克明に反復されるということである。
そうしたことに接すると、われわれは、ほとんど生気を失ないかけているかのようだった目の前の人の人格や思考が鮮やかに復活したかのようにも思うものだが、この「驚き」の内容はそれだけではない。
人間の表面的な意識や思考や、さらには人格というようなものの底に、もっと(生命にとって?)本源的であるかもしれない、精密で自動的な流れのようなものがあるのではないかということを感じて、われわれは驚くのだ(しかしまた、「他者」に出会うとは、そういうことかもしれない)。


ドゥルーズガタリが、いくつかの著作において「欲望機械」や「器官なき身体」という概念によって提示しようとしたのは、ひとつにはそういうことだったと思う(『千のプラトー』では、「抽象機械」という、さらに洗練された概念が登場する)。
それは、「私」には制御不可能なものとして、自分の身体や欲望をとらえるということ、そしてその解放ということの上に、社会の枠組みを作り直そうという試みだったのではないかと思う。
70年代はじめの「政治の季節」に書かれた『アンチ・オイディプス』にはとくに、そういう思想が強烈に示されている。


たとえば「記憶」ということについても、それは「人格」や「主体」といった近代的な枠組みに従属するものとしてだけ考えられるものではない。
近代的な主体である「私」の意識によっては制御できないような記憶の流れ、思考の流れ、といったものを考えることができるだろう。
いわば「主体」や「人格」を凌駕したり裏切ったりするような記憶の流れ、働き。
欲望としての記憶。


ニーチェは、「記憶」の「忘却」に対する優位という伝統的な位階を転倒させた偉大な思想家だといわれるが、ニーチェの20世紀におけるもっとも重要な後継者ではないかと思われるドゥルーズガタリにおいては、「記憶」はニーチェ的な「忘却」とほとんど同じ意味を持つものになっているのではないか。
そういう意味での「記憶」というもの、もちろん『ショアー』をはじめ戦争や歴史の出来事の記憶を扱った多くの映像作品は、そういう「記憶」にこそ焦点をあてているのだと思うが、それを十分に組み込むような「歴史」と「記憶」についての議論や仕組みは、まだ出来ていないのではないか。
いや、「歴史」についてだけでなく、この社会のあらゆる事柄に関して。
ドゥルーズたちが、(反ヒューマニズムとしての)ファシズムを否認するのではなく、それを乗り越えることでしか、あらたな社会の枠組みを構想できないと考えたのは、そういう意味でだろう。


だが、最初の例に戻ると、記憶や思考力を失いかけているかにみえる身体が、なにかを語りはじめるのは、目の前の誰かに向って、とりわけこの「私」に向ってではないだろうか。
「欲望機械」という一元的な論理に、ひとつ欠けているように思えるのは、そのことだ。
自動的な流れはたしかにあるのだが、それが出現し作動するのは、ある関係性、しかしもちろん「主体」や「人格」とは別種の関係性においてではないだろうか?


アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)