最近ブログで放映を案内した二つの番組について、感想を短くメモ。
まず『ニュース23』のブートキャンプの取材映像についてだが、ぼくは二日目に放映された、入隊当初はキャリアアップのためのような感じで入ってきた若者が、三ヶ月の期間を終わる頃になると、完全に「良き海兵隊員」のようになっていて、今後も隊に残ると話していた場面が、一番印象に残った。
それを見て、同じ日だったと思うけど、ベトナム戦争を取材した写真家の石川文洋さんがNHKの番組に出てて、個人的にはほんとうに親切な人であっても、戦場に行くと命令されればどんな残酷なことでもしなくてはいけないし、またそれをするようになっていくものだ、と言っていたのを思い出した。
ブートキャンプは戦場ではないが、戦場と同じように、人を変える、もしくは社会的なものをそぎ落として、躊躇なく人を殺すという人間のありのままの一面をむき出しにしてしまう装置、工場のようなものではないか。
こうしたアメリカの若者たちの状況と、日本のそれとの比較については、やはり湯浅誠さんも『反貧困』のなかで「貧困と戦争」という視点から触れておられるが、ぼく自身は、3年ほど前に、こんなエントリーを書いていた。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20050209/p2
それで、もう一本の「もやい」をとりあげた番組のこと。
こちらは、困窮した人たちを「支援する側」である、「もやい」のスタッフの人たちにもスポットを当てる内容だったと思う。
登場したスタッフの一人の方は、自身も一年前には野宿生活に陥る寸前で、「もやい」に相談に来た立場だったとのこと。
「支援する側」と「支援される側」が、ある意味で同じ平面に立たされているということは、両者の連帯は強まるかもしれない*1が、非常に困難な状況には違いないと思う。
湯浅さんの言葉でいえば、「支援する側」も「溜め」が十分には得られていないというのが、いまの日本の社会の状態だろう。「支援される側」だけでなく、「支援する側」や「介護する側」も社会的に孤立してしまうような状況がある。ほんとうは、ぼくら社会の全員が困窮してる人を「支援する(すべき)側」に立っているはずだが、そのようには考えられず、「支援する側」と「支援される側」が、ひとくくりにされて、社会の片隅に押し込められ、見えないようにさせられている。
そんな歪な社会の現状を、番組では上方からのカメラワークで、よく表現してたと思う。
*1:こうした連帯には、どこか権力によって仕組まれているような印象もある。