辺野古基地反対の集会に参加して

5日、日曜日に辺野古基地建設に反対する集会とデモが大阪であり、参加してきたので、そのことを簡単に書いておきたい。



この日の集会は、辺野古の基地建設反対の取り組んできた、大阪の11の団体が手を結んで行われたとのこと。
会場では、影山あさ子さんたちが撮影したDVD「速報 辺野古のたたかい」の7、8月分が上映され、現地の様子が生々しく伝えられた。
また、この間に、関西から辺野古へ応援のため出向いた人達、これから行く予定の人が壇上に並んで、報告と共に、それぞれの思いを語った。
関西でも、この事柄に取り組んでいる人は、長い人はもう10年以上になる。また、最近関心を持つようになって、矢も楯もたまらず行動に移った人たちも居る。現状に対して、それぞれの思いのあることが、よく伝わってきた。どの人の言葉も、重さと熱意のこもったものだった。
特に印象深かったのは、長年辺野古に関わってきたが、事情があって、ここ数年は現地に行けず、先月頃に久しぶりに行ってきたという方が、10年前の沖国大のヘリ墜落事故があった頃と比較して、今はその当時とは比べ物にならないほど、沖縄の人たちの怒りが強くなり、その輪が広がっている印象を受けたと、述べられたことだった。
これは、こちらで報道などを見ているだけでは、なかなか分からない部分ではないかと思う。
そして、この怒りの深まりに対して、「われわれは今、連帯しなければ、いつするのだ」、ということを言われた。
この言葉は、登壇した何人かの人から、特に、長くこの問題に取り組んできた人たちから、異口同音に聞かれたものである。そこには、沖縄や辺野古に、今のこの状況を押しつけてしまった、痛恨の思いが込められていると感じた。

ここで、僕の思いを、少し書いておきたい。
JR大阪駅前での情宣活動に参加した時、ある日、沖縄出身で今は関西、たしか兵庫県だったと思うが、暮らしておられる方が、行動の終わりに挨拶されたことがあった。
その時、開口一番に言われたのは、「まさか皆さんの中には、沖縄が気の毒だから、沖縄のために、というような気持ちで活動しておられる方は、いないと思います」ということだった。
つまり、基地反対の問題は、他人(沖縄)のために、ということでなく、自分自身の問題として、反対を貫くのでなければ、ほんものではない、ということだと思う。
この言葉は、心に刺さった。
「他人のためでなく、自分自身の問題として、基地に反対する」とは、自分と他人との区別以前のところで、基地に反対する、ということだろう。その中には、特定の他人に、そうした装置(基地)を押しつけて知らぬ顔をし続ける差別への怒りも、当然含まれる。だが根底にあるのは、命を否定し、破壊するような力や思想を許さない、ということだろう。
自分の住む場所であっても、他人の土地(例えば沖縄)であっても、命を否定するものとしての基地を許さないという、明確な気持ち、どこであっても同様に(差別なく)、基地というものの存在を断固拒むという態度が、求められるのだと思う。
影山さんたちのDVDの中でも、沖縄の人達が何度も口にしていたのは、「人殺しのための基地を、作らせるわけにいかない」というものだった。
沖縄の人たちの、反対運動の根底には、この思いがあるのだと思う。
それは、長い年月にわたるヤマト・日本による支配と、あの沖縄戦、そして戦後の米軍基地の経験を通じて、また抵抗運動のさまざまな取り組みの結果として、継承され、培われてきた思いだと思う。
被害体験を、ただ記憶したり継承するというだけではなく、それを自分たちのものとして、常に血肉化していくという努力の集積。そうせざるを得ない過酷な現実の中に沖縄が置かれてきたことは、まぎれもない事実だが、とにかくその集積の中から、「人を殺すための基地を作らせてはならない」という強い思いが生れ、歴史を作っていく主体としての意志が生れ、抵抗の輪の広がりが生まれてきた。
そういうものが、今の僕たちには、まだ欠けている。

デモに出発する前、大阪駅前での反対行動に、いつも参加されている、沖縄出身の牧志徳さんたちによるライブ演奏が行われ、とても良かったのだが、僕はとりわけ、牧さんが最初に歌われた、琉球の古い歌に魅了された。
それは、1600年代の初め頃、薩摩藩琉球王国を初めて支配下におさめた頃、つまりヤマトによる琉球支配の始まりの時期の、民衆の心情を歌ったものだという。
「なんという苦しい世の中なのだ。こんな酷い世の中では、生きていても仕方がない」
そのような心情は、現在にもそのまま通じるものだろうと、牧さんは言われたが、まさにその思いを込めて、あの歌を歌われたのだろう。
「生きていても仕方がない」というのは、もちろん、この苦難の中を生き続けようとする強靭な意志や思いの、裏返しの表現だと思う。