生産と倒錯

最近、「生産力」ということについてよく書いてるわけだが、もともとなんでこのことに拘るようになったのか、もう忘れてしまった。
ただ、昨日もとりあげた例の人の主張にしてもそうだが、いわゆる「新自由主義的」な言説を目にして違和感をおぼえることのひとつは、「生産」とか「生産力」という言葉が、過剰労働や分配がうまくいっていないこと(富、というより財の偏在?)による現実の悲惨な状況、国境の内外で犠牲者が出たり、資本の拡大のせいで環境が破壊されたりといった現状を是認するための言葉として用いられているということだ。
つまり、現実に起きている、自分たちが生きているこの世界のなかでの出来事を、まるで仮想世界の出来事のようにとらえて、その「意味」を否認するということ、深い意味での「生の否定」のための概念として、「生産」や「生産力」が引き合いに出され、論じられているということに、倒錯したものを感じる。


この倒錯は、昨日も書いたように、この論者たちが競争を続けて「生産力」を維持することを正当化するための口実として、「中国」を持ち出したり、「あるいは未来の死者(競争をやめて生産力が落ちることにより、より多くの死者が未来に出るだろうという論理)」を持ち出してくるときの感じ、つまり現実の私たちが生きている世界とは無縁なモデルのようなものとして、「中国」や「未来の死者」なる概念が持ち出されてくる、その感覚に通じている。
その底にあるのは、そうした言葉を語っている人自身の、自己の生に対する、あまりにもシニカルな態度、目線であるように思うのだ。
もちろん、「そう語っている人」は、一様ではない。その置かれた社会的位置によって、この「シニカルさ」の内実はさまざまであろう。なかには、強い怒りや苛立ちをはらんだ、悲鳴にも似た「シニカル」な言葉が存在することは分かる。
そうした言葉は、あまりに痛々しく、現実のこの社会の仕組みが一人一人の生に刻み込んだ傷の深さと、それへの反発の情念のようなものさえ、そこには感じられるときがある。


だが、自分にとって、もっともたしかなことは何か。
以前にも書いたが、「私は、他人が存在していないような世界に生きることを望んでいない」ということだけは、どう考えてもたしかなことなのだ。「自己」の延長では終わらない世界に生きたいという、私の根本的な思いに、「シニカル」さにもとづく上記の倒錯的な言葉の用法と、そうした言葉を用いて主張される世界観、価値観は背く。
この言葉も、この世界観も、世界から私にとって「制御不可能なもの」(立岩真也は、これを他者性の定義としていた)を取り除いてしまおうとするからだ。


生産(そして、労働)に関して言えば、「生産」や「生産力」という言葉を、歴史上のあらゆる官僚的な用法、スターリン主義者や岸信介や、新自由主義のイデオローグたちが用いてきた用法ではなく、つまり現実(現在)の悲惨を否認し正当化するための、生の現実の否定のためのスローガンとしてでなく、使いたい。
「生産」というとき、それが個人や企業や国家の、個別的な収益の獲得、生存の保障にだけ結びつけられてしまう、という倒錯。それを廃すること。
「他者が存在している」ということを基本的な条件とする、このぼくたちの生の世界の現実性を支える条件としての、だから本来的に「分配」と不可分のものとしてしかありえないものであるはずのものとしての「生産」や「生産力」という語の意味を復活させること。
他者と自分の基本的な生の条件を、とりわけ他者たちの最も「非生産的な生」を保障するためのものとして、「生産」や「生産力」を位置づけ直すこと。