生産性について

困窮している他人を助けようとしても、生産性の低い社会であっては、それはおぼつかないではないか。弱者を救おうと本気で思うなら、効率や競争を重視して、生産性の高い社会を作るしか道はないのだ。
本気かどうか、こういったことを言う人がいる。
もし本気で言っているのだとすれば、「他人を救おう」という真面目な気持ちから発した考えであるから、それ自体は立派であるとはいえよう。実際には、そういう真面目な心情が、社会の現状を変えたくないと思う人、自分の生き方に対する疑問が生じるのを封殺したいと思っている人によって利用されるのが常なのだが。


ともかく、「他人を助けること」と「生産性」をめぐるこういう意見について、思うことを書いておく。
たしかに、他人を助けるためにも、自分が食べたり望ましい生活を送るためにも、生産力を上げること自体は悪くない。しかし問題は、生産性の向上を最優先の目的とすることが、どんな社会をもたらすかだろう。
重要なのは、何がその社会の目的とされているか、何のために生産性が追及される必要があるのかが、はっきりしているかどうかだ。
早い話、現在のこの社会全体の生産性を「10」とすると、それを「7」とか「8」ぐらいに抑えることにより、より多くの人間の命が救われたり、その人なりに幸福な生を送れた可能性はある。ここで生産性の数値が下がっているのは、再分配や、直接賃労働につながらない活動、そして睡眠や休息を含めた生の時間に、社会全体の「力」が有意義に配分されたからである。
そう。睡眠や休息、たとえば何もせず目を閉じてただ呼吸しているというだけのことも、他人との関わりにおいて、ひとつの立派な「力」である場合がある。それが、人間の生というものだ。
現在の経済・社会の仕組みにおける「生産性」という狭い概念、それだけを目的とするような価値観や思考法・政策では、そうした「力」の総体をとらえられない。
だから、生産性の数値をあげるという唯一の目標を目指して、人間の生存と社会のあり方のすべてを組織してしまう。それにより、「生産」の過程で過労死する人が増えたり、競争原理の名目で職を奪われたり社会的に排除されて困窮する人が多く生じる。
またなにより、もともと何かの事情で「生産性の低い」人、そうみなされる人たちの存在(生存)は、社会全体の生産性を下げるからという理由で軽視される。あまつさえ、「他人を救えなくなるから」という理由で、この人たちの排除や存在の否定が是認されるようになる。
そういう社会が、人を救える社会であるといえるか?


もうひとつ、富の偏在という問題がある。
これは、たんなる不平等ということではない。
世界全体の生産力が上がり、富の総量が増えたとしよう。だが、その富が特定の人たちのもとに過剰に集中し、困窮した人たち、また不公平を受けてきた人たちにも分配されないのであれば、この「生産力の向上」は、人を救うことにつながらない。
現在の世界の経済は、明白にその傾向を強めている。
ここでも、なんのために生産性を向上させるのか、その目的が明確にされなければならない。「経済」や「生産」ということはたしかに重要だが、それはあくまで、手段として重要だということである。