先日のエントリーについての反省

この二日ほど話題にしてきたことに関連して、まだウダウダと書きながら考えたい、整理したいことがあるのだが、先にこちらのエントリーに関することを、あまり日にちが経たないうちに補足しておこう。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070418/p2
長崎市長射殺事件の報道について』


まず、コメントをいただいたtu-taさんや、TBをいただいたsumita-mさんが指摘されるとおり、文中で「行政対象暴力」という語(概念)について、『それ自体は許すことも看過することもできないものであるとはいえ』というような表現を用いたことは、軽率だったと思う。
そう思う理由については、sumita-mさんがエントリーのなかに簡潔に書かれているとおりのことである。

行政対象暴力」という言葉が一般化されることによって、ゆすり・たかりに属するようなことも、正統性を持つ可能性がある行政への市民的な抗議も一緒くたにされてしまう可能性があるからだ。


実際、ぼくがあのNHKの番組を見たときに感じた危惧も、そのことが大きな要素をなしていた。
つまりぼくとしては、まだ事件の全容が分かっていない、きわめて早い段階で、「行政対象暴力」のひとつとして今回の事件が性格づけられることにより、一方で真相(動機や背景)の究明が曖昧にされてしまうと共に、「行政対象暴力」への対処の名のもとでの市民による交渉や抗議行動の押さえ込みという方向に、今回の事件が利用されるのではないかという危惧をもった。
それにも関わらず、上記のような軽率な表現を用いたのは、言い訳できないところである。
これは、たしかに暴力団などによる「ゆすり・たかり」などのひどい事例が多発しているらしいこと、その重大さも否定するわけにはいかないだろうという気持ちから出た、不要の強調表現だった。


もうひとつ、やはりsumitaさんが疑問を呈しておられる、『動機はどうあれ、政治的なテロである。』という一文について。
これもずいぶん舌足らずな言葉だったと思うが、自分では、実際の動機がどのようなものであっても、政治や言論に対する「脅し」として働くだろうという、「効果」の面を指して「政治的なテロ」という表現を用いた。
ただ、「政治的なテロ」と修飾する必要はなく、たんに「テロル」と書いたほうが的確だったかもしれない。政治(公共)的な空間が脅かされることを、とりあえずここでは問題にしていたからだ。


ここで、ひとつの問題は、「テロ」という言葉を安易に用いていいのか、ということだ。
何をもって「テロリズム」とするか、この言葉が「行政対象暴力」のように一人歩きし、都合よく用いられる可能性、用いられてきた現実、それらに関してはよく考えずに用いた。
ただ、暴力によって社会(公共空間)を脅かす行為という意味で、「テロル」(恐怖)というこの言葉のもともとの用法(たぶん)に近いところで、やや安易にこの言葉を使った。


このような事件の場合、実際の動機や背景が完全に解明され、真相がすっかり明かされるとは考えにくい面がある。実際はともかく、多くの人、とくにそうした暴力に直面する恐れがあると感じている人たちは、そのように感じるだろう。
こうした政治家や言論人などに対する暴力行為の、特異さのひとつはそれであり、そして実際、それを効果として狙って「脅し」の意味をこめてこうした犯行がなされる場合があるだろう。
だからこそ、責任ある政治家やマスコミは、犯行が行われた直後、その行為そのもの(動機ではなく)に対して、「許さない」という意思表示(パフォーマンス)をする必要があるのだ。
安倍首相は、例によって、そのタイミングがワンテンポ遅れたのだが、一応「民主主義への挑戦である」というメッセージを出したらしい。


また、こちらのエントリーに書かれていることは、難しくて、ぼくの理解力を越えているのだが、最後の部分、

この事件を「政治的テロ」と呼びうるとするならば、その根拠は相手の生命を担保にして属性の機能の変容を要求するという点にあり、その点では首長を狙うケースと行政スタッフを狙う場合との間の差異よりもむしろ共通点のほうを考えるほうが適切ではないか、と私は考えます。


ここに関していうと、ぼくのあのエントリーの論旨では、たしかに二つのケースの差異を強調するようなものになってしまっている。
これは、ここまで書いてきたいくつかの論点とも関わっていることのように思う。
行政対象暴力」や「テロ」という言葉を、あまり吟味しないまま、自分の思いだけを早急に述べようとしたために、こうした無理が生じたのかもしれない。
これも、反省点だ。