長崎市長射殺事件の報道について

長崎市の伊藤市長が射殺された事件、動機はまだ分からないわけだが、9時のNHKのニュースでは「行政対象暴力」という言葉が紹介され、今回の事件に関連づけられていた。
4年前に今回の容疑者が自動車の事故を起こし、それについて市の職員などに強引な賠償要求をしたりしていたので、それが原因で市長を逆恨みするようになったのでは、という推測らしい。
そんなことで銃撃なんてするものかどうか、どうにも腑に落ちない話である。
マスコミも、それしか流せるネタがないということだろう。
しかし、いまの時点で今回の事件の解釈を「行政対象暴力」という語によって処理してしまうかのような報道は、よくないと思う。


行政対象暴力」というのは、番組でも紹介されてたように、すでに他の地域で死者も出ている深刻な問題であり、それはそれで報じられ、対策が講じられるべきことだろう。
だが、今回の事件の社会的な衝撃というのは、公職にある人、それも世界的にも(核問題への発言などで)知名度の高い政治家が、選挙期間中に銃撃され殺されたということだ。
動機はどうあれ、政治的なテロである。
公共の政治や言論の空間が、暴力によって侵され脅かされ、人の命が奪われたということが、この出来事の社会的な本質であって、ここでの暴力の対象はたんに「行政」ではなく、人々の公共的な空間の全体なのだ。
まずこの暴力の性格が見定められ、批判されなければならず、そうした視座から犯行の本当の動機、背景が検証されなくてはならない。
行政対象暴力」という、それ自体は許すことも看過することもできないものであるとはいえ、一般的な範疇のなかに、この特異な(政治的テロという)社会的性格をもつ暴力を封じ込めてしまうことは、人々の公共的な空間への脅迫という、この暴力の本当の凶悪さを隠してしまうことにつながる。
今回の出来事で、脅かされ、奪われたのは、人の命であり、人々が生きていくための空間の自由であって、「行政」という機構や装置ではない。
マスコミもわれわれも、この事実から目をそむけてはいけないと思う。