実存の複数性と生の封鎖

以下は、前回のエントリーの内容にも関係して。


下記の記事などに書かれているように、大阪市釜ヶ崎解放会館」の住民票削除問題が、たいへんな段階を迎えている。

http://bund.jp/modules/wordpress/index.php?p=338

http://bund.jp/modules/wordpress/index.php?p=339

http://0000000000.net/p-navi/info/news/200702270146.htm


もちろん、これは行政側のとんでもない暴挙であると思う。
「適正化」という名のもとに行われる、この一方的な措置により、多くの人たちが市民的な権利を奪われ、「半難民化」(『旗旗』さんの表現だが、その通りだと思う)させられることになる。
ありえないような、ひどい話だ。


ところで、こうした日雇い労働者の人たちや、あるいは野宿者の人たちが置かれている状況が、今や多くの若者たち、一般の人たちにとっても身近なものになりつつある、ということが言われる。
たしかに、低賃金化や雇用の不安定さによる「格差」の拡大、貧困の増大と呼ばれる現象があり、社会保障の削減、そしておそらくは治安対策の強化などにより、経済的な面でも、市民的な権利一般においても、とくに若い人たちの多くが置かれている状況は、野宿の人たちや、釜ヶ崎の人たちがずっと置かれてきたそれに、ずいぶん似通ってきているといえるだろう。


だがぼくが疑問に思うのは、「これはあなたにとっても切実な問題だ」という呼びかけだけで、人と人とをつなぐことができるだろうか、ということである。
あくまでぼくの想像だが、たとえば野宿者の支援に深く関わっていく若い人たちというのは、はじめは自分自身が抱えている悩みや葛藤を解決する糸口のようなものとして、つまり自分一個の実存の問題としてそこに入っていくが、どこかで、その自分の存在が他人の生や死ということと直接つながっていることに気づくのではないかと思う。
つまりそれは、「自分の身」の問題であると同時に、むしろそれに先立つものとして「他人の生や死」の問題であるということになる。
ここで、支援に携わっているその人の生(実存)の意識は、個的なものから、いわば複数的なものに転換するのだといえるのではないか。
たぶんこのときに、人が他人の身に起きている困難にたいして、深く誠実に関わるための「力」が、ほんとうに生じてくるのだと思う。


じつは前回のエントリーのなかで、生活保護を受けている「77歳のおばあさん」の映像に、ぼくが仮託して見ようとしたのも、そういう「複数的な実存」の感覚のようなことだった。
そこには、実存が「弱体化」(上山和樹さんの表現)したり、「無力化」しないための、道筋のひとつがあるのだと思う。
この道筋が、だれにも、そしてぼく自身にも通りうるものかどうか、まだ分からない。
ただ、人が肯定的に自分の生を生きていくための「力」が、実存の複数性と呼べるところから生じるものだとすると、実存のそうした側面というか、位相のようなものは、どのようにして自分(たち)にとって閉ざされたものになっているのか。そのことに向き合う必要があるだろう。
あのおばあさんの生と、ぼくの生とが本当につながるためには、この閉鎖(封鎖)が解かれ、そこに「力」が再び通い始めなければならないのだろう。