マグロについての腑に落ちない話

人間がマグロを食べすぎて、あと何年かするとマグロの赤身もトロも食べられなくなる、という話をよく聞く。
そう聞くと、たしかに「それは大変だ」という気持ちにはなる。
だがちょっと奇妙に思うことは、それはそれだけ人間がマグロをとって食べてしまうということだが、釣られ、殺されて食べられてしまうマグロが可愛そうだとか、マグロの命の重さを問題にするような言葉は、あまり聞かれない。少なくとも、マスコミには流れない。ぼく自身も、そういう考えは思い浮かばない。
マスコミの論調も、世間一般の感情も、ぼくの意識も、「おいしいものが食べられなくなるのは困る」というだけの話である。そのように思える。
だが、ぼくらが感じているのは、本当にそれだけなんだろうか。


もし技術革新によって、生きているマグロとまったく同じ味の人工的な食べ物が作り出され、流通することになったとする。これは十分ありそうな話だ。いや、もうある程度は実現してるのかもしれん。猫も人間も、けっこうそういうものを喜んで食べてたりするのかもしれない。
味も見掛けも、言われなければそれと気づかないものを作り出すのは、きっと不可能ではないだろう。
だが、それが自然界のマグロ(そういえば、マグロの養殖の研究が進められてるらしいが、あれはどこまで「自然界」なのか?)ではなく、人工的なものだと知っていた場合、それを食べる自分は、どう思うだろう。
「おいしいものが食べられなくなる」ということだけが、マグロの絶滅を悲しむ理由なら、ここで基本的には「問題なし」と思うはずなのである。


どうも、「問題なし」とは思わない気がする。
何かが欠けているような、具合の悪い感情を心の底にもつのではないかと思う。それは、よく考えなければそれと気づかないような、「感情以前の感じ」みたいなもんだろうが。


では、ここでは一体何が欠けているのだろう。「自然環境」が破壊され失われたと思うのかなあ?でも、それも技術によって人工的に再生させることは、きっと不可能ではない。そして、さっきと同じ問いになる。
やっぱり何かが欠けてるんじゃないか?
かりに、人工的に作り出される味が、もとの(自然の)味より、もっと美味しく、また人工的に作り出される環境が、自然の環境よりも快適なものだったとしよう。環境については、それはすでに実現している。では一生この人工的な環境のなかで生きていくことで、ほんとうに満たされるか?
「満たされる」という答えの方が、正直でもあり、自分の欲望にも意識にも忠実であるとは思える。ただ、そこで言い尽くせないものが、それはそんなにはっきり言えるものでもないのだが、あるようにぼくは感じる。
これは、「自然環境」でなく、「生命」といってみても同じである。今日では、「生命」も、人工的に作り出すことや「改良」さえ可能とされているのだから。


人工的な世界や、ぼくたち自身が「完全に利己的である」と思い込んでいるぼくたちの欲望、それらに収斂しない、このかすかな「言い尽くせないもの」はなんだろう。


この本を読みながら、たとえばそんなことも思うようになった。


私的所有論

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