秋葉原の事件

一般的なことについてだけ書く。


無差別大量殺人のようなことは、日本でも昔あったし、どんな社会でも起こりうるものだと思う。だから、こういう事件と、社会の病理とをただちに結びつけることには疑問がある。
たしかに、どんな社会になっても、こういう種類の犯罪、暴力がなくなることはないのだろう。社会とか制度という要素では処理しきれない、また処理してしまうべきでもない、人間の心の部分というのは、たしかにある。「最善の社会」においても凶行を犯す可能性を、人間はいくらかは持つ。


しかし、その個々の社会において、具体的にどういう条件(状況)が、特定の人(そういう素質を持った人かもしれない)をそうした行動に追い込んでいるのか、追い込みうるのかということは、見極めておく必要がある。そして、その社会のなかで、その社会なりに、こういう犯罪が起きなくてすむ、そういう誰かがこういう行動に走らなくてもすむような、最善の策を講じなくてはならない。
そのことは、さまざまな被害者や犠牲者の数を極力減らすためにも不可欠なことである*1
だから、このように言って済ませるわけにもいかない。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080610/crm0806101540028-n1.htm


問われるべきものは、こうした犯罪が現実に起きるか起きないかに関わらず、ただされなければならない非人間的な社会のあり方の問題なのだ。「行政がなしうること」という問いも、多くはその点に関わると考えるべきである。


今回の事件の加害者の経歴の報道を見ていて、ひとつには、やはり部品工場で働く派遣社員として、いつ首を切られてもおかしくないという状態のなかにあったということが印象に残る。犯行の「理由」とか「要因」と呼べるようなものではないにせよ、多くの人が日常的に、いつ人員整理の対象になるのかまったく分からないという状態で働かなければいけない社会というのは、やはりひどく殺伐とした社会であることは間違いない。
まず何よりも、この異常さ、過酷さに、あらためて震撼する。
いつ整理の対象になってもおかしくないような存在(数値化され、代替可能な存在)として扱われるという状況は、学生の頃から、ずっとこの加害者の周囲にあったのかもしれない。


繰り返すが仮にそうであったとしても、それが、この事件の直接の理由や要因だということではない。
大事なことは、この加害者に限らず、今の日本の社会全体が、そういう状況のなかにあるということである。
無論、そういう状況に置かれても、犯罪を起こすような人は限られている。しかし、誰かはそういう行動をとるだろうし、そうでなければその人自身が衰弱して死んだり(または自殺したり)、もしくは別の形で憎しみや暴力を他人に振り向けるだろう。
そのもっとも大掛かりで合法的な回路が、戦争であることは言うまでもない。
上記の記事のような発言をする政治家は、意識していなくとも、こうした非人間的な社会の継続と、暴力の過剰な噴出や、戦争によるその回収を、支持し容認しているのである。


もうひとつ、もっとも目に付いたことを書く。
事件発生直後の現場の様子を携帯で動画撮影して流したりした人たちの行動について、ネット上で批判の反応もあがっているという話題を、きのうの「ニュース23」で報じていた。このような「良心的な」議論がネット上で生じていることが、さも意外である、という報じ方だったが、自分たちテレビなどマスメディアの報道のあり方についての反省・疑問、「良心的な」見解は、一言も発せられることがなかった。
もっとも影響力の強い人たちの、このような無責任・無自覚な態度が、状況をますます悪化させ、多くの人々を袋小路に追い込んでいるのである。

*1:この点について言えば、厳罰化が凶悪事件発生の減少をもたらすという証拠がないことは、つねに重視されるべきだ。