『人道的介入』

ほかにも考察結果はあるが、ひとまずは以上で十分だろう。これだけでも十分に複雑である。だが、人道的介入を論ずるとき、なぜ私たちはこのように入り組んだ議論をし、つきつめて考え、短絡的でない結論を模索せねばならないのだろうか。
 その最大の理由は、人道的介入への問いが圧倒的な迫力を秘めている分だけ落とし穴も大きいこと、したがって、十分に熟考しておこなわなければならないことである。さもなくば、何のために介入したのか分からなくなるおそれもある。いかにも、このように大切な事柄は、自己陶酔あるいは心情倫理への没頭からなされてもならないし、目前の問題さえ片づければよいといった対症療法であってもならない。(p191〜192)


人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)

人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)


ある国の内部でひどい人権侵害が起きており、のみならず内戦や虐殺があったり、飢饉がおきたりしてたくさんの人が死んでいっている。
このとき、たとえこの国の主権を侵す形になっても、また時には武力によってでも、この危機に瀕した人々を救うために、他の国、もしくは国際機関、人々がこの国の内情に「介入」していくことは正当なのか。
これが、「人道的介入」と呼ばれるものをめぐる問題である。
本書では、冷戦期からポスト冷戦期にわたり、90年代末に起きた「コソボ空爆」までのいくつもの「介入」の実例の検証を踏まえて、このたいへん複雑な問題が論じられている。


非常に専門的な内容を含む、その議論の全体を要約することは難しいので、とくに関心を持った点に絞って、この本で論じられていることの内容に触れてみたい。
この本を読んでみて思うことは、介入の主体として「国家」という単位を立てること自体に無理があるのではないか、ということである。
人道的介入をめぐっては、非人道的状況に対して個別国家(国々)が独断で武力行使を行えるか否かという「狭義の人道的介入」に関する問題と、それに限らず国連などの国際機関や民間(市民)が行う介入行動をどう考えるかという「広義の人道的介入」についての問題とを区別して論じる必要があると、著者は述べている。
大雑把にいえば、後者、とくに市民(NGO団体など)による武力を行使しない平和的な介入、つまり「人道的介入」の本来の目的であるはずの危機に瀕している人たちの救済が中心となって行われるべきであり、前者は、それを円滑に遂行するために必要最小限のものに限って条件付きで認める、というのが本書の主張になっていると思う。

国家による介入、その恣意性

国家による人道的介入、その問題点はなんなのか。
そのひとつの理由を、本書の次のような記述からうかがうことができる。

(前略)第二に、そうして同じことがくり返されても、同じ介入国が人道的介入をくり返すわけではない。それは、国家が独断で行う人道的介入には選択性がつきまとう、ということを意味している。国家の武力行使というものは、人道的(=利他的)と形容される場合でも、介入国自身の利益とまったく無関係になされるわけではないのである。(p41)

第一に、現実の人道的介入が「客観的に」なされるわけではないことである。誰もが自らの危険を顧みずに武力介入するわけではない。とくに、相手が強大国である場合、他の国々は二の足を踏む(チェチェンの場合はロシア、パレスチナの場合はイスラエルと米国、チベットの場合は中国)。第二に、そうして「客観的に」なされないということは、言いかえれば、現実に行われた人道的介入は「恣意的」だったのではないか、という疑念の元にもなる。たまたまおこなわれ、たまたまおこなわれない措置というものは、社会的な正当性を獲得しにくい。背後にある「無辜の人々が殺されるのを座視できるか」という問いの深刻さにもかかわらず、人道的介入が正当性を得にくいままできたのも、こういう恣意性が払拭されないことと、深い関係があるように思われる。(p45〜46)


これらの記述からうかがえることは、本質的に自己の「利益」を追求するものである「国家」の存在と、「人道的介入」という概念とが根本的に折り合わないのではないか、ということである。
また考えてみると、ある国の「国家主権」を「人道」の名の下に相対化してしまうような行為は、介入国自身の国家主権をも相対化させてしまうことにつながるだろうから、元来国家がこういうことの実行主体たりうるのかという疑問は、ここからも生じてくる。
実際かつて、戦後のある時期までは、他国の内情に介入するような行為は、たとえ「人道」にもとづくものであっても、国際社会ではなされるべきでない行為とされていたのだそうである。つまり、「国家主権」が「人道」や「人権」よりも明白に優先されていたということだ。
これはひとつには、人道的な救済を口実にして他国に干渉するという、実際にもあった(今日でもあるだろうが)事例が起きるのを防ぐためだろうが、それだけでなく「国家の論理」が今とは別の形で強力に機能していた時代の発想だともいえる。

武力行使をめぐる問題

また、国家による介入においては、武力行使国際法上の合法性や妥当性との兼ね合いということも、当然問題になる。「人道的介入」ということを口実にして、ある国家が武力を公然と行使することがまかりとおれば、国際社会の平和的な秩序が揺らいでしまうだろう。これも、「人道的介入」という切迫した概念(目の前で死んでいく人たちを見捨てていいのか、という)がもつ落とし穴となる。
実際、国家による(つまり「狭義」の)「人道的介入」においては、「国家主権」との兼ね合いということと同時に、武力行使の必要性や正当性というものをどう考えるかということが、もうひとつの大きなジレンマになっている。人々の命を救うための手段としての武力の使用は、認められるべきかどうか。著者はそれを、「絶対倫理と絶対平和」の間の緊張関係というふうに定義している。
ここでの著者の視点は、人道的介入とは本来困窮し迫害を受けている人たちの救済が目的なのだから、武力行使はその目的の遂行を助けるものとしてのみ認められるべきだ、ということである。
ところが、国家による、あるいは国家の連合による武力行使は、迫害している独裁者や勢力への「懲罰」を名目とする場合が多い。そこで、「懲罰ではなく救済を」というふうに、著者の主張を要約することもできるだろう。
国家の場合には、本当は利益の追求ということが目的であるのに、「懲罰」(あるいは「報復」?)を(そう明言はしなくとも)正当化のための暗黙の理由にして、ある国に「恣意的に」武力で介入していくのではないか、という疑いを、現在ぼくたちは抱いている。だが、そもそも「懲罰」を理由とした武力行使などあってはならないのだ、というのが、著者の立場だといえよう。
付け加えると、国家による介入について、著者が書いていることのなかで、なるほどと強く思わせるのは、たとえば次のようなくだりだ。

本当に必要な、最後の手段としての武力行使なら必ずしも反対しないが、無責任な行動で事態を悪化させた当の国が武力行使をすることは安易には認められない、という主張である。これは正しい。再び狭義の人道的介入(個別の国々が独自の判断でおこなう武力介入)の要件に話を戻すことになるが、かりにそうした武力介入が認められるとしても、事態を悪化させた張本人が正義の味方然と武力行使に乗り出す資格はない、と見るべきだとも言えるからである。(p179〜180)

国連の変容?

ところで、第二次大戦以後の状況の変化にともない、それでも危機に瀕した人々を救うための介入が否定することのできない要請と考えられるようになり、その方法の一部として時には武力の使用もやむをえない場合がある(なにしろ、迫害を行っているのは「国家」などの軍事力を持った存在なわけだから)との考えが共有されるようになるなかで、「国家」に代わる「介入」の主体の役割を担うものとして期待されたのは、もちろん国連だった。
本書では、いくつかの「介入」の実践をとおして、「中立性と非暴力性」を掲げてきた国連のあり方が、厳しく問われることになった経緯が書かれている。
その記述は、読みようによっては、ある時期(ガリ事務総長の時代)から国連が主権化(マッチョ化)していくことにより、国際社会の調整役としての自分の存在の可能性(機能)を見失っていき、結果として国家間の「力の論理」に同一化してしまう過程のようにも思われて、たいへん興味深い。
さらに、「9・11」以後の世界の変化を経た*1現在の視点から見て、とくに関心を引くのは、次のような指摘である。

とはいえ、この章で明らかになったもうひとつのことは、非人道的状況に置かれている人々を救うという、本来の意味の人道的介入が必要な状況でも、国連がそれを行うのではない事例がしばしば見られるようになっていることである。国連の活動と並行して一部の国々が行う場合もあるし、国連がいわば「外注」する場合もある。そして、人道的介入を旧時代に戻すおそれがあるという意味で深刻なのだが、国連を無視して一部諸国が独自で武力行使する場合もある。(p92〜93)


現在のわれわれには、非常にリアルなものに受取れるこの指摘から考えつくことのひとつは、今では国連というものが、「国家主権」というものの新たな形態、少なくともその秩序を補完するようなものになってしまったのではないか、ということである。
先ほどの比喩でいえば、国連は諸国家の国家主権のマッチョ的な対立を調整すると同時に揺さぶり、また牽制するという、それまでかろうじて有していた有意義な属性をいつしか喪失し、既存の国家主権による国際秩序(「帝国」的な?)を補完するだけの機構になり果てようとしている。そんな連想も浮かぶ。

人権と国家主権

さて、人道的介入と国家主権、というテーマを考えながら本書を読んでいくと、たいへん興味深く思えるのは、次のようなところである。

だが、まだ別の問題が残る。選択肢が、人権侵害の救済か武力の不行使かというものである場合、後者を選択することが「時代遅れ」と批判される可能性のあることである。武力不行使原則自体が時代遅れなのではない。人道的介入は是か非かという問題が、しばしば、人権をとるか国家主権をとるかという選択に置き換えられるため、武力不行使原則の重視が、あたかも国家主権重視と同義であるかのように見なされることなのである。(p122)

問題は、いまの設問に答えて「人権」を選んだ場合、なかば自動的に武力不行使原則の緩和をも選択する結果になることである。これはおかしい。「人権」を選択することの結果として切り捨てられる「国家主権」とは、まずもって、その国に対する他国の不介入義務である。人権侵害国の国家主権はその限りで保護を奪われる。(p123)


これは結局、現実には「人権」や「救済」ということが、どこかの国家による恣意的、あるいは利己的な武力の行使を正当化する隠れ蓑として使われるということが多い、ということだ。
そうした国家による「人道的介入」の都合のよい利用を批判しながら、「人権」と「国家主権」に関しての著者の立場ははっきりしている。

飢えに苦しむ人々に食料を届け、傷病にさいなまれる人々に医療をほどこし、住む場所を奪われた人々に保護を与えることを妨げる「主権」を、いかなる国家も持っていない。この意味でなら、明らかに人権は国家主権に優先する。またその意味での人道的介入であるなら、それは抑制されるべきものではなく、むしろ推進されるべきものとなる。(p145)


こうして、あくまで「市民的介入」が中心となっていくことの必要性を主張しながら、あるべき「人道的介入」の姿が本書では慎重に模索され、提案されている。


難しいけど、勉強になる本でした。

*1:本書の出版は2001年の秋であり、あとがきには同年9月18日、つまり「9・11」の出来事のちょうど一週間後の日付が記されている。