『差別感情の哲学』を批判する

差別感情の哲学

差別感情の哲学


久しぶりに、読んでて卒倒しそうなほど腹が立った。
書いてあることは、普段身近でよく耳にする意見と重なるところがあるので、この機会にちゃんと批判を書いておきたい。

基本的なスタンスへの批判

著者の基本的なスタンスは、次のようなところに示されている。

私の疑問は、「心」に限定される。制度上の差別は撤廃してしかるべきであろう。差別的発言も(少なくとも)制限されるべきである。しかし、差別撲滅運動が人間の心に潜む悪意まで徹底的に刈り込むことを目標にするのだとしたら、誰もが差別感情を抱かなくなることを到達点とみなすのだとすれば、直感的にそれは違うのではないかと思う。(p9)

しかし、現代日本社会においていかに差別に対する社会的制裁が厳しくても、現に差別感情は各人のうちに存在する。むしろ、今日の問題状況は、「差別をしてはならない」という社会的コンセンサスと自分は差別感情を抱いているという内的現実とのズレである。少なからぬ人が、このズレに悩んでいる。あまりにも社会的コンセンサスに合致した行為をすると、自分の誠実性が叫び声を上げる。あまりにも自分の誠実性を守ろうとすると、社会的に排除される。ここには、二つの領域を画然と分けている高い壁がそびえている。(p40)


「差別撲滅運動」うんぬんの話は後で考えることにして、ここで注意したいのは、著者が自分にとっての問題の範囲を、「心」(差別感情)に限定し、そこでの「自分の誠実性」というものを極めて重視しているということである。


私が考えるに、差別というのは、たしかに「自分の心」に関わる問題だろうが、現実に起きていることは差別という暴力によって他人の心が傷つけられたり、命さえ失うといった事態である。
(自分の)「心」の問題(誠実性)は、せいぜいその一要素ということでしかあるまい。
そして、差別とは他人に関わる社会的な事柄なのだから、社会や制度から切り離して「心」だけを論じることが、そもそも可能なのかということも疑問である。
つまり、差別に関しては、社会が私の「心」に働きかける力というものを捨象して、「心」を独立した領域のように扱う方法は、そもそも意味をなさないのではないか。


とはいえ、「心」だけが自分の関心の対象であるという言明は、たんに方法的に、自分はそこにだけ対象を限定して考察するという態度の表明であれば、別に問題はない。
心理学者は、そうせざるを得ないであろう。
だが、著者の場合には違っている。
著者は、「心」(自分の心)にこだわる態度こそが、差別と向き合う姿勢として根本的な意義を持つものであって、世の「差別撤廃運動」などは、人間の「心」の領域を押しつぶしかねない抑圧的なものだと考えているらしい。
つまり、差別の問題において真に重要なのは、「心」(誠実性)というテーマに他ならないという判断を、ここで下しているのである。


私はここに、出来事の社会的な側面が持つ重要性を否認し、反差別のための社会変革への自己の不参加を正当化すると同時に、差別的な社会のあり方によって保障されている自分の(精神的な)権益を維持しようという、著者の欲望が見出せると思う。
ここでは、「心」の問題の重要性の主張は、この欲望を覆い隠しながら実行するための手段として働いている。
著者が言う「誠実性」は、差別の問題に関する限り、こうした根本的な不誠実の上に建てられている「欺瞞の城」だと、私は思う。


私は、「自分の心」の問題が重要でないと思うのではない。
むしろそのことは、反差別の運動や言論にたずさわってきた人たちは、(著者の偏見に反して)みな十二分に思い悩んできただろうし、今もそうだろう。
著者はこう言う。

その社会における価値観とぴったり一致して差別に怒りを覚える人は、どこまでも「正しい」と評価されるからこそ、あえて自己批判的にならなければならない。その「怒り」が正しいとみなされるからこそ、繊細な精神をもって、自分の怒りには時代の潮流に乗っている気楽さや安全性が潜んでいることをしっかり見据えなければならない。(p67〜68)


私に言わせれば、差別的な「時代の潮流」(というより、変わらない日本社会の体質)に迎合している「気楽さや安全性」に身を委ねて、「自己批判」の精神を忘却しているのは、著者の方である。
たしかにどこの社会でもそうであるように、運動のなかにも権力意識にまみれているような人はいるであろう。だが、そういう自分たちのなかの矛盾、また自分自身の「心」のズレの問題に、誰よりも切実に悩み、(自己と)戦ってきたのは、運動を余儀なくされている人たちであり、差別を受けている当事者たちだと私は思う。


そして(この点が最も大事だが)、そうした「繊細な精神」は、差別に反対し、社会を変革していこうとする実際の行動のなかに置かれてこそ、はじめてその生を持ちうるはずである(そもそも差別に賛成したり容認する「繊細な精神」なんてありうるか?)。


それに、(著者が言うように)日本で「反差別」が支配的なイデオロギー(「正しさ」)とされたことなど、一度でもあったろうか。
日本が、「人権後進国」だというのは、国際的に広く知られている事実である。
日本では反差別の運動の力はまだまだ大変弱いと思うが(私のような消極的な人間が多いからである)、それでも運動をやっていく必要があるのは、日本は「反差別」という考えが実際にはまるで力を持っていない国で、何もしなければ差別の暴力があっという間に国中を覆ってしまうような社会だからだ。
実際、今そうなろうとしてるではないか?





第一章の内容について

(この部分は、この論の本旨からはそれるのだが、一応簡単に触れておく。)


私がもっとも驚いたのは、とりわけ第一章の議論に見られる粗雑さである。
「五体満足」であることが「ヒトという生物体の種としてより価値がある」だとか、障害者の文化(「文化としての障害」)が健常者の文化と同等であるわけがないとか、著者の思い込みというしかないものを疑いようのない前提のように語っている文章は、「哲学とはあらゆることを疑うこと」だと書いていた『哲学の教科書』の筆者のものとは、とても思えない。
また、「ノーマライゼーション」についての箇所では、立岩真也他の引用された文章について、完全な誤読としか思えない解釈が示されている。
詳述はしないが、引かれている論者たちが、健常者と障害者を「ノーマル/非ノーマル」と区分するような現行の社会の枠組み(あり方)を批判している文章を、著者は何故か、健常者がノーマルとされることを自明のものとする論理として読んでしまうのである。
こうしたことは、社会に問題があり、またそうした社会は変革しうるものだとする考えを、著者が頑なに意識の外に置こうとしていることから生じた、論の強引さや誤読なのではあるまいか?


それにしても、『哲学の教科書』では、中島氏は、どのような生であっても、「生きる」ことそのことにこそ絶対的な重みとすごさがある、と語っていたはずである。
その同じ人が、なぜ「五体満足」でない人の生の価値を低いと決め付けるようなことを言うのか。この表現が、障害者への差別を意図したものではなく、器具の助けを借りて健常者と変わらぬ生活を営もうとする人たちの自由を擁護しようとして出てきた言葉であることは分かるが、その根底にある価値観は、やはり偏見に満ちたものだと言うしかない。
また、同じ本のなかで中島氏は、哲学とは病気のようなものだとも言い、自分を「哲学病」の患者に見立てていた。その喩えでいえば、中島氏自身、「哲学という障害」を生きている人であろう。
氏は、自分のそうした生が、一般人のそれより価値が低いとか、重みにおいて劣るとか、深い意味で不幸であるとか、思っているのか?
尋ねてみたいところである。





「特権的被差別者」と「見えない差別」

また著者は、今の日本社会においてさまざまな差別のまなざしや言動、行動を向けることを社会的な規範によって禁止されている(守られている)、『身体障害者被差別部落出身者や在日韓国人やホームレスやゲイやシングルマザー』などの人たちを「特権的被差別者」(この「特権的」という語は、第一章では括弧付きで用いられているが、後には括弧がはずされる。)と、批判的なニュアンスで呼ぶ。
そして、たとえばこのように書く。

(特権的)被差別者に対する軽蔑の言葉が聞かれないのは、真実「軽蔑すべきではない」と確信している場合もあるであろうが、社会的制裁を恐れている場合も否定できないであろう。
 現代日本では、差別感情を「抱くこと」が禁じられているわけではないが、その表出が厳しく禁じられている。(中略)こうした魔女裁判的状況に恐れおののくとき、われわれはみずからの誠実性を固く保てなくなる。(p95)


これでは「特権的差別者」の存在は、われわれの「誠実性」を損なう障害であるかのようだ。
そもそも、なぜこの人たちがこの社会では、(中島氏の言う)「特権」によって保護されなくてはならなかったか。
それは、そうすることでしか迫害を免れないほどに、有形無形の差別状況のひどい国だからだが、中島氏はそういうことには関心を向けない。


そして、ここで「特権的」という語が使われていることの意味は、次の第二章で明らかになる。
そのなかで著者は、現在の社会では「(学力などの)能力において劣っている」というようなことについての差別が歴然と存在しているのに、そうした差別や格差が、まるで存在しないかのような建前に社会が覆われているということを指摘し、その理不尽さと、「特権的差別者」たちの待遇とを、何故か対立関係に置いて語るのである。

知的障害者なら立派な(?)弱者、被差別候補者として現代社会では丁重に保護される。しかし、単なる低学力者はいかなる保護もされない。(p136)

その巨大な理不尽を押しやって、障害者差別とか女性差別とか人種差別という定型的な差別問題だけを取り扱っている限り、それにいかに情熱を燃やそうとも、繊細な精神をもっているとは到底言えない。(p136〜137)


秋葉原の無差別殺傷事件を例にあげて、著者は、こうした(格差や差別として語ることの許されない)「見えない差別」が広がっていることを、「特権化された差別」との対比において語る。
つまり、「在日」や障害者や性的マイノリティに対する差別などを「特権化」している圧力と、能力についてのありふれた差別を「見えない」ものにしている抑圧とは、同じ性格のものだと、著者は考えてるのであろう。
これは「特権的被差別」なるものが存在するという前提に立つなら、一理あるようにも見えてしまう考えだ。だが私に言わせれば、そうしたものが「特権」のように見えるということは、とりもなおさずこの社会がいかに差別的であるかということの証左なのだ。
例えば自治体が朝鮮学校への補助金を払ってきたのは、本来国や行政が行うべきであった制度的保障が、まったく行われてこなかったことの結果であり、それを補うための措置であって、「特権」などではない。


むしろそれが「特権」にしか見えないということは、この社会では人の生命の価値や権利というものがいかに貶められ、多くの人々がその価値基準を内面化して生きていることの証拠だろう。
この意味でなら、特定の被差別者を人々が「特権的」と見なしてしまう心理と、その人々が置かれている困難な現実を「見えない」ものにしている構造とは、たしかに重なっている。
つまり、「特権的」という語によって他者の被差別の事実をわれわれから見えなくしている力と、われわれ自身の生の現実の困難さを他人にも自分自身にも「見えない」ものにしてしまっている力とは、同じ力である。
だから必要なのは、同じこのひとつの力、つまり日本という国と社会の、差別的な体質に徹底して抗うという一事である。




第三章について

ところで本書の第三章は、「差別感情と誠実性」となっており、著者が最重要の事柄であると考えている「自分の誠実性」と、他人を差別しないことという「善」との、あるべき関係が探られる。
著者の言う「誠実性」とは、「パレーシア」とも呼ばれるものであることが示される。
それは、自分の命にかえても「真実を語ること」を重視する西洋の伝統的概念であるという。

パレーシアは、とくに権力者に向かう態度としては百パーセント首肯できる。しかし、問題は、これを(身体障害者のような)社会的弱者に直接適用できるか否かである。(p204)


ここから著者は、考えを突き詰めて、「ヒトラーは誠実であったか?」という「難問」に行き着き、最終的にカントの「最高善」を参照する形で、「誠実性」と「善」との折り合いをつけようとする。
われわれは、他人の幸福を自分の信念(誠実性)に優先させるような選択をしてはならない。それは(ニーチェの言う)「奴隷道徳」のような欺瞞と精神的退廃を招くだけだからだ、と著者は言う。

しかし、このことは自分の誠実性を貫くために(他人の)幸福を無視していいことにはならない。(p213)

この場合安直な同情は慎むべきであるとしても、同情しないからといって誠実性を貫いたことにはならない。私は彼の幸福を願うべきなのだ。(p214)

こうした態度をもって誠実性を求めるとき、われわれは他人の幸福と単純に対立する誠実性から、それを取り込んだ、すでに一段階上がった誠実性に至っているのではないだろうか。(p215)


この追求の過程は、なるほど「誠実」なものではある。
だがすでに述べたように、私の疑念は、そもそも著者における「誠実性」とは、『権力者に向かう態度として』はまったく不誠実な、はじめから限定された領域(政治や社会における責任を問われない領域)にのみ関わるものではないか、ということである。
中島氏は、この根本的不誠実さのままに、いわば現実の差別と対決せず、差別的な社会構造の維持に手を貸すことのアリバイとして、「誠実性」という価値にこだわっているように、私には思えるのだ。



最後に

著者のような態度は、決してただちに排外的とか右翼的とか呼べるようなものではなく、保守的なものですらない。
むしろ著者は、私などより、ずっと筋金入りのリベラルな個人主義者であろう。
だがこの本から分かることは、そういう信念を持つ人であっても、容易に差別的な社会の風潮に迎合・同調してしまうことがあるのが、この国の政治的・社会的な現実だというということである。
それは、「内面」や「誠実性」といった価値が、この国において置かれている位相だとも言えよう。