民主化を阻む力

ETV特集の『僕たちのアイヌ宣言』という番組を見ていてはじめて知ったが、日本政府は、去年国連総会での採択時に賛成した『先住民の権利に関する宣言』について、「アイヌ民族が先住民であるかどうかは結論を下せない」という立場を表明してるのだそうである。福田首相も国会でそれを明言している。


つまり「先住民の権利が守られるべきだ」という国際社会の合意には賛同するが、自分の国のなかにはそれに当てはまるような事柄は存在しない、ということらしい。
これでは、「日本に少数民族問題など存在しない」と述べた中曽根発言の認識が、そのまま現政権のなかに引き継がれてるということではないか。
『先住民の権利に関する宣言』については、日本があんなにあっさり賛成したのはどうもおかしいと思ってたが、こういうことだったのか。


日本政府としては、アイヌの人々を先住民とは認めないが(つまり国際社会において認められるべきとされている「権利」の行使は認めないが)、『固有の文化を発展させてきた民族とは認識しており、文化振興などの施策を引き続き推進する』(福田首相)ということだそうである。
自分たちが「先住民」とされるべき人々に対してしたことは全て否認したうえで、したがってその人たちが当然持つべき「権利」を否定したうえで、その文化振興などに対する支援・保護だけはする。
そして国際社会に対しては、「先住民の権利」を支持し(ただし、自国には関係ないこととして)、先住民ではないが自国のなかで「固有の文化を発展させてきた民族」に対して保護的な政策を推進する「文化国家」として振舞う、というわけである。


これはなんと言ったらいいか、形式だけの「似非(多)文化主義」も、ここに極まれり、という感じである。
日本政府の考えによれば、アイヌの人たちには「文化振興などの施策」は必要である(つまり慈善的な「保護」の対象ではある)が、「権利」はないのである。その理由は、この人たちに権利を認めることは、自分たちが行ってきた収奪や差別・抑圧・支配を認めることにつながるからであり、それは現在の社会のあり方を根底的に変えていくことにつながってしまうからである。
ある個人や集団を「保護するべき対象」とだけ見なし、「権利」を有する存在、つまり政治的・法的な力を持つ存在としては認めまいとすること、権力によるその「否認」の理由は、現在支配的である仕組みが可変的なものであるという事実が露呈していくことへの怖れなのだ。
こうしたところに、「民主的な力」を阻むものが在る。


ところで、12日に行われた台湾の立法議員選挙では、与党民進党が大敗し、陳水扁総統が兼任する党主席の座を引責辞任した。
陳水扁という政治家についてはさまざまな見方があり、そのなかで日本の右派メディアは、『「台湾人意識」を根付かせた』というような評価の仕方をしている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080113-00000049-san-int


だが、陳水扁による民進党の政権下では、台湾の「原住民族」の自治を目指す法整備への努力がなされたことをはじめとして、自国の歴史と在り方を、他者との関係を通して根底から問い直そうとする試みがなされたということこそ、忘れてはならないことである。
それが中国に対する「独立」の気運に結びつくような世論操作の一面を持っていたとしても、そこには他者との関係のなかで社会を問い直し、作り直そうとする「理念」や意欲があったはずだ。
それは、陳水扁同様に敗北した韓国の盧武鉉政権のなかにもあったものである。


社会の成り立ちそのものを根底から問い直し、作り変えていくことが可能だと信じること、その「信」を他者との関係のなかで不断に育んでいくということ。
つまりそれが、「民主化」ということの意味であり、韓国や台湾の社会に比して、われわれの社会がまだ十分には獲得できていないものなのだ。