犠牲に供されるもの

原発での給水作業やその他の作業はすすめられており、このまま最悪の状況の回避がもたらされるのであれば、そのこと自体は、喜ばしいとしか言いようがない。決して「最悪の状況」がもたらされてはならない。そう思う。


もちろん、作業によって死傷したり被曝している人たちの存在は、無視も正当化も美化もされてはならない事実として、目の前にある。
何度も繰り返すが、原発の存在は、それが「正常」に稼動している日常から、こうした現場の労働者や周辺住民の「犠牲」のうえにしか成立しないものであると思う。まして、このような大事故が起これば、なおさらそのことが露呈する。
最も基本的なことを言えば、「想定」では自然などの現実には対処できない部分が残る。その現実が起きたとき、「想定外だった」と言ってすませるには、核エネルギーはあまりにも破壊的でありすぎるのだ。異常が起きたときに制御できないような力を、われわれは利用しようとしてはいけない。そう思う。


だが、そこに一足飛びに行く前に、この日本において原発という存在が、どのようなものとして存在してきたか、それを内在的に捉えることが大事だ。
参考として、この映像を見て欲しい。パート3までアップされており、差別の上に成り立ち、(被曝者に対する)新たな差別を生産してきた日本の原発のあり方が、生々しく描かれている。


つまり、何か(他人、環境、自分の生命)を犠牲にして、別の何か(日常生活?だが誰のための?)を保持していくことが当然だと思い込んできた、ぼくたちの生き方が問われねばならない。
それは、原発にとどまらず、根底にあって、日本においてこの危険極まりない原発の存在を成立させてきた土台のようなものである。そこを抜きにして、ただ「危険だから」「怖いから」というだけの原発反対は、間違っているとは言わないが、弱いと思う。



東京新聞が、いま原発についてどう思っているかの緊急世論調査を行った。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2011031902100011.html


原発に不安」88%であるのに、「どうすべきか」という問いに対し「やめて、別の発電方法をとる」が14%しかなく、一方「運転しながら安全対策を強化していく」が56%。つまりは原発容認論が大勢なのだ。
この数字をどう考えるか。
ここで示されているのは、「危険なのは分かるが、今の生活を手放したくない」という思いだろう。同じ思いが、買占めに人々を走らせる。
それは、「今の生活」を手放せば、ただちに死や恐ろしいことが待っていると、人々が思ってるということだ。不安を耐え忍んで(否認して)も、またたとえ他の人たちを犠牲にしても、「今の生活」にしがみつくことが最善だ、それ以外に選択肢はない、という考えが、ぼくたちを支配している。
それは、他人の犠牲に目をつむる気持ちであると同時に、政府やマスコミの説明にしがみつくことで、自分や家族の健康の不安・恐怖を見ないことにする気持ちでもある。
みな、「原発に不安」はあるのだが、その不安に向き合うことの方が、もっと不安なのだ。
大丈夫だと思いたい気持ちは、「今の生活」を手放さないためには、自分や家族の健康が犠牲になっても仕方がないというシニカルな気分、諦めのような感情とつながっており、それが他人の「犠牲」を肯定する態度にもつながっている。


考えれば、ぼくらのこの社会は元々、この自他への「犠牲」の論理、自他を犠牲にして秩序やシステムの安定を維持すべし、という思想に貫かれている。
日本における原発の存在は、たぶんそのことの象徴でもある。




今回の原発事故の作業の報道や論調を見ていて、非常に嫌な気持ちがするのは、これまで日本の原発というものを可能にしてきたものでもある、この自他への犠牲の論理が、この事故を機に、社会全体における労働のあり方の規範のようなものとして、公然と広まっていくのではないか、という思いだ。
厚生労働省は、計画停電に伴う休業では賃金保障をしなくていい、という通達を既に出したようである。
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20110318/1300438926

これは名目上は「体力のない企業の経営を守るため」という理由でなされるのかも知れないが、実際には国が果たすべき責任の放棄であると同時に、大企業をはじめとして人を部品のように使い棄てる非正規雇用のような労働のあり方を、「復興」や「非常時」という大義名分のもとに、従来以上に公然化していく流れにつながるものではないか。
震災によって大打撃を受けた日本経済は、そうでもしなければ立ち直れないだろう、というわけである。


それでも多くの人は、「今の生活」の保持のために、こうした非人間的な労働のあり方さえ、原発の存在と同様、自他が受け入れることを許容(強要)するのだろう。
だが、そうまでして固執される「今の生活」とは、安定や安全とは何か?それは、ぼくたちの生活や生命に、本当に関わりのあるものなのか。それはむしろもっぱら、システムや制度の維持にだけ関わるものなのではないか。
今後、自分自身に対しても問わざるをえなくなるのは、この問いだろう。
それは、他人の犠牲において成り立つ安定や安心とは、本物の安定や安心なのか、という重い問いかけでもある。
この重さに直面することへの忌避が、世論調査の結果となって現われてるようにも思うのである。


安定や安全というならば、自分の表層の意識だけでなく、自分や家族の生命、他人の生存までも含めて考慮された「安定」や「安全」こそが求められるべきだ。
そういう感覚を奪われ、不安の中で孤立しながら表層の「今の生活」の維持だけを、安定や安心の内実だと思い込まされる場所で、ぼくたちは生活している。
世論調査の数字が示しているのも、その事実だと思う。
原発への反対は、こうしたぼくらの生の狭いあり方を変えていく意志にこそ根ざさなくてはならない。
他人に「犠牲の死」を強いながら日常を送ることは、自分の生命を毀損しながら生きることと同じなのだ。