『松ヶ根乱射事件』

『リンダリンダリンダ』山下敦弘監督の新作ということで期待して見たが、やっぱりすごく不思議な味わいと魅力のある作品だった。
「面白い映画か?」と訊かれると、微妙なんだけど。
http://www.matsugane.jp/


「松ヶ根」というのは、物語の舞台になる寂れた田舎町の名前だ。
時代設定は、90年代の前半か中頃ぐらい。実際にあった出来事を脚色して作られているらしい。
この、90年代中ごろの日本の地方の町という設定が、この映画の核心みたいなものだとぼくには思えた。
たとえば『ファーゴ』のような映画に出てくる、グローバル化の影響でさびれはて、スカスカになってしまった90年代のアメリカの田舎の感じ、それから、この映画のホームページにも賞賛のコメントを寄せているポン・ジュノが傑作『殺人の追憶』で描いたような80年代終わりごろの、社会全体の変化に取り残されていきつつある韓国の田舎の雰囲気、そういうものとどこか重なっている、しかしそれらと微妙に違ってもいる、日本の日常の独特な閉塞した空気が、見事に表現されている。


主人公は、この田舎町で生まれ育って、今は町の駐在所に勤務している若い警察官である。この家族は、いろいろな事情から、すでにゆるやかに崩壊していて、それぞれが苛立ちや不満やストレスや、そこからも原因していると思われる屈折した性の欲望などを抱えている。そういうものにとらわれながら日常をゆるやかに、しかし余裕もなくやり過ごしているのだ。
そんな家の一員としてこの若者は暮らしているわけだが、彼には双子の兄がいる。この兄が、あるとき見知らぬ女をひき逃げしてしまったことから、どこかとりとめのない事件のようなことに巻き込まれていく。
この先は、ストーリーを説明しても、あまり意味がなさそうに思う。
登場人物の誰にとっても事ははかばかしく進展せず、もやもやとしたままに次第に状況は煮詰まっていき、けれども劇的なカタストロフにいたることも、カタルシスを迎えることもなく、時折煮え切らない暴発のようなことが起きてはまた緩慢な日常が回復し、そしてどこかで苛立ちの水位だけが音もなく高まっていく。
そうした経緯が淡々と、しかしたぶん絶妙な手際でもって描かれていく。


ただ、先にも書いたが、これは日本という特定の国の、特定の一時代を描いたとても「歴史的」な映画だと思った。その歴史性の、大きな表面上の特徴は、「非歴史的」だということである。
野暮を承知で、ここで描かれているこの時代の「現実」を、ぼくなりにあえて言葉で分析してみたい。それは、たんに経済的・社会的なことだけでなく、人々の内面や欲望、関係ということに関わる。
ここでは、西川美和『ゆれる』との比較が、参考になりそうだ。
『ゆれる』とこの映画との共通点は、ひとつには地方を舞台にしているということである。それは、たんに田舎の生活を描くということではなくて、明示されていてもいなくても、「東京」とか「世界」とかいった中心部から隔てられていると感じられる場所としての「地方」の物語だということだ。その意味では、ドーナツ化した都会の真ん中にも、いや近郊の住宅地にさえ、この「地方」はあるといえるかもしれない。
「地方」が抱えている閉塞感と空虚さは、第一義的にはグローバル化に絡んだ経済的・社会的な「格差」の結果なのだが、広く社会全体を覆っているともいえるのである。家族や地域の共同性は瓦解し、展望のない日常のゆるい流れだけが桎梏のように続いていく。この時代、今のように「格差」は問題化していなかったが、それがはらむ(たんに経済的な面にとどまらない)破綻と不安は、人々の日常に静かに浸透しつつあったと言えるだろう。


もうひとつの共通点は、兄弟間の心理的な葛藤が描かれているということである。『ゆれる』では、兄の弟に対する羨望が大きな意味をもった。この映画でも、二卵性であるのか双子といっても弟よりずっと小柄な兄は、性格など全般的に弟と比較されて下に見られることが多かったらしく、その鬱憤を激しくぶつけていく場面がある。
このふたつめの点から感じられるのは、「羨望」や「ルサンチマン」と呼べるような感情が、どこか偽の情動であるという感触だ。つまり、この映画の登場人物たちは、自分や自分の周囲の人間が生きていることの力の核心のような場所から遠ざけられており、愛情や欲望や怒りといったものが、その核心部に触れることなく、身近なものへの屈折した感情や不満や敵意となって狭いループを描いてしまう。その生きているという力の感じに対する渇きのようなものが、日常のなかでせりあがってくる苛立ちの原因となっているように思う。
一言で言うと、奪われた関係性に対する渇きが、ここにはある気がする。それが、上に言った意味での「地方」という場所の日常を支配しているリアリティーかもしれない。



だが、ここがこの映画と『ゆれる』との大きな違いだと思うのだが、『松ヶ根乱射事件』においては、失われたと思われる関係性(共同性)を回復しようとする欲望のようなものは、じつは稀薄である。
むしろこの映画のスクリーンに溢れているものは、それが「空虚」な日常であり「偽」の情動としか感じられないものだとしても、この人間たちにとってそれは唯一のかけがえのない現実であり、人生であり、情動であるという、痛切な意識、そして愛惜の気持ちのようなものである。
排外主義やファシズムの到来さえ予感させるこの「現実」は無残だが、そこにしかこの社会で生身の人間が生きている現実はない。そういう静かなメッセージが、伝わってくるように思えた。


俳優では、主演の新井浩文もとても良いのだが、兄を演じた山中崇の熱演が、ここでは強烈な印象を残す。素晴らしかった。
ねじれた羨望と憎悪で結ばれた双子を演じた、この主役二人のキャスティングの妙は、この作品の成功のもっとも大きな要因かもしれない。
たとえば、バイクで「殴りこみ」に行こうとする兄が懸命に語りかけているのに、駐在所のなかにいる弟にはガラスでさえぎられて何も聞こえないという場面のおかしさとやるせなさは、見事であった。
それと、木村祐一。まるで山から降りてきた狸みたいな、世事に疎い悪人を演じているのだが、これまでの彼の映画のキャリアのなかで、たぶん一番の当たり役だろう。助演男優賞ものだ。
その愛人の役をやった川越美和もよい。どこかで見た顔なのに思い出せなかったが、いわれてみればあれは確かに川越美和だ。懐かしい。
このカップルの雰囲気には、どこか異界の存在を思わせるユーモラスさがあった。
また、だらしない父親の役を演じた三浦友和の変貌ぶりも見ものである。はじめは彼だと気づかなかった。気がついて見始めると、特別演じているという感じもなく、いつもどおりの甘い二枚目なのだが、「ここ」という勝負どころで嫌らしい凄みのある芝居をした。なかなかのものだ。


パスカルズというグループによる音楽が、とても優れた効果をあげている。ぼくの乏しい音楽知識のなかで言うと、昔オーネット・コールマンなどと一緒に演奏していたデヴィッド・アイゼンソンというフリー・ジャズ系のベース奏者が居たが、ああいう感じの美しさだった。