『NNNドキュメント07 孤独死・・・生活保護の闇』

日曜の深夜、表題の番組をみた。


Yahooのテレビ欄に載った番組紹介の文章。

生活保護行政が抱える問題点を検証する。昨年、北九州市市営住宅で男性が孤独死した。男性には生活保護の申請意思があったが、息子からの援助を促されるばかりで申請書さえ渡されなかった。北九州市はかつて生活保護受給率が全国有数だった歴史を持つが"適正化"により支給に慎重になった。その一方で、生活保護の不正受給がある"乱給"の自治体も存在する。不況の影響もあって国の社会保障関係費は膨らんでおり、申請書を渡さず受給率を低く抑える北九州市の"水際作戦"は全国のモデルになりつつあるという。


NNNのこのドキュメンタリーの枠では、以前にもこうした生活保護をめぐる行政の有り方を批判する番組を作ったことがあり、話題になった。
たしかに、生活保護については、財政難を理由に、なるべく受給させない方向にもっていこうとしている自治体が多いようだ。
これには、ちょっと整理しておきたいところがある。


今増えつつあるらしいのは、上記のように、そもそも申請をさせない、という行政のやり方である。
番組では、北九州市では、「申請書を月に十枚以上出させたら出世がおぼつかなくなる」との噂があるという役所内の特殊事情も紹介されていたが、やはり上記のように、この「特殊」なやり方が、いまや全国に広がりつつあるらしい。
審査の末に給付しないというならともかく、そもそも申請を受け付けないというのは、社会のなかで生活に困窮している人たちを救う最後のネットという、憲法とも合致した生活保護の理念にもとることである。つまり、いま現在の法によって規定された国のあり方を行政そのものが否定していることになり、「国家と行政」という枠組みで考えても、これはあってはいけないことだろう。
その、国としてもあるべきでないことを、財源難を理由として行政の現場が広く行おうとしている。それが、日本(だけかどうか知らないが)の社会の実情ということになる。
これは生活保護という制度を今後どうするかということとは、別のこととして言えることだと思う。


それからもうひとつ。
生活保護のお金を行政が出したくないというのは、要するに財源がないからだろう。なぜ財源がないのか、それをどうすればよいのかについては議論があるだろう。
だが、よく申請についての審査を厳しくする理由としてあげられるのは、「不正受給」ということである。番組のなかにも出てきたが、暴力団などによる大がかりなものが、しばしば問題になる。
「こういう悪い事例があり、不届き者がいるから」という理由で、「生活保護の審査を厳しくします」という話になるのだが、そういうことは犯罪であれば法的に処置をすればいいことであり、申請を受取ってからの審査をきちんとやれば問題はないはずである。
だから「不正受給」があるということは、行政が生活保護を出し渋ったり、まして申請そのものを受け付けないようにする理由としては、まったくおかしい。
つまり、本当の理由、肝心なことが言われないで、一部の人の行動を強調して生活保護を受ける人たち一般への道徳的な非難・不信感につながるような言説が流布している。


ぼくは、生活保護という制度自体が、たしかに現在の社会には適合しないところがあり、人の命や最低限の生活をほんとうに保障しようと思うのなら、別の仕組みに切り替えていく必要があるように思う。そのなかで、行政が果たす役割も当然変わっていくであろう。
しかし、現行の制度のなかで人が生きることを最終的に支えようとするなら、生活保護制度の十分な運用ということしかない。また、制度をどう変えていくかを論じる前提として、その制度がもつ問題点と現状について、多くの人にきちんと知らされる必要がある。
そうしたことが行われておらず、ただ「金がないから」ということを錦の御旗のようにして、なし崩しに「改革」や「効率化」が進められると共に生活保護の給付が行われなくなり、死んでいく人、困窮し絶望する人が増え続ける。
非常にシニカルな、行政と社会の現状である。
この国の政治や行政ではいつも、理念や法ということより、「現状がこうだから仕方がない」という言い分の方が力をもってしまうのだ。


番組のなかには、申請を断られて「孤独死」した男性の事例のほか、いくつかの例が紹介されていた。77歳になるという一人暮らしのおばあさんは、百円の焼き魚を二食に分けておかずにして食べているそうである。電気代の節約のために、夕食はテレビ画面の明かりを頼りに食べる。生活保護の見直しで母子加算とともに老齢加算も削られることになり、ほんとうに生きていくことも難しい金額にまで、この人が受給できるお金は減らされた。
規制緩和や「改革」により、医療などにかかるお金も増えていくなかで、生活保護を受けられるかどうかは、憲法で保障された「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ためのものではありえなくなり、人が日々を生き延びていくためのぎりぎりのラインということになりつつある。
今の日本では、「生活保護」は、社会の中で人が生き延びていくことに行政は責任を持つのか放棄するのか、その分かれ目にかかる制度になっているといえるだろう。
行政がそれを放棄するというなら、社会に住むわれわれ自身が困窮した人(自分や他人)の生死をどう引き受けるのか、広範な議論が必要なはずだが、そこは曖昧にされたままで、ただ行政の効率性のようなことだけが追求されている。
それは、経済や効率性にまさるような生きるための原理を、われわれ自身、この社会自体がもっていないからではないだろうか。


この77歳のおばあさんは、欲しい食べ物もまるで買えない今のような暮らしでは、生きることに何の楽しみや希望もないと言い、毎晩眠りにつくとき、朝になって目が覚めることがなければどんなにいいかと思う、と語っていた。
しかし、その言葉には、自分の生に対する投げやりさのようなものはなかった。表情にも、憤りや悲しみは強く感じられたが、生に対する否定的な感情を、そこに見出すことは出来なかった。
ぼくは、まったく希望や楽しみを見出しがたいような状況で、なおこの人を「自分が生きること」へと肯定的に向わせているものは何なのかと、考えた。
思い当たるのは、自分の生というもの、自分が生きていることそのことを、自分だけに関わる価値ではないものとしてとらえているのではないか、ということである。
これは、「〜のおかげで」という互酬的な感情とは、微妙に違うものだと思う。いわば、自分が生きていることを、そのこと自体で他者に関わることがらとしてとらえているのではないか。
だから、どんな絶望的な状況も、それによって直接に自分の生や存在を否定的(シニカル)に判断する理由にはならない。


困窮のどん底のような場所に置かれた、あのおばあさんの表情を見ていて、ぼくが想像したものは、そういう精神のあり方だった。
それは、上に書いたような、この国の政治・行政や社会の一般的なあり方とは、対極にあるもののように思える。


追記。
あとで気づいたのですが、番組のタイトルになった北九州市の事件に関して、『旗旗』さんにエントリーがアップされていました。

【北九州市生活保護問題】北橋市長、門司餓死事件の調査を明言