運動や組織について幾つかのこと

2月16日のエントリー『最近の総連等への弾圧的捜査について』のコメント欄から。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070216/p1

# もんも 『
野宿者の襲撃や総連から拉致されることを恐れるのは、あなたの大好であるはずの、女性や子供などの市井の弱者がもつ本能的な防衛本能ですよ。こっちを全然守らずして、特殊ケースである朝鮮マイノリティーや野宿者たちの権益ばっかり守るのはダブルスタンダードだといっているのですよ。わかんないんですか?』 (2007/02/19 23:53)

(中略)

こういった非営利的な地道な地域運動だって立派な弱者救済運動であるにもかかわらず、まったくないがしろにして、強教科書問題だのイラクだの朝鮮マイノリティーだのといった、きわめて”産業的”な弱者利権活動ばかり行ったり評価していたりするのですから、あなたのことを見て、なんかおかしいと感じないひとはいないんですよ。なんかうさんくさい・・とかんじるひとが大多数なわけです。市井の弱者でさえも。

どうして地域の主婦や商店主たちの、犯罪から子供たちを守る地道な活動を記事に書いたり評価したりしないんですか?どうして協会や寺院の無償活動はスルーするのですか?おのれの組織の活動とバッティングするから邪魔な存在なんですか?こういう活動が充実して、社会が治安もよくなって安定的発展をしちゃうと、社会不安が起こらなくなって革命が遠のくから困るんですか?自分たちがおまんまの食いアゲになるからですか?ラカンだのフーコーだの難しいことを考えるような余裕があるのなら、この単純な問題に答えてください。』 (2007/02/20 00:11)


「おのれの組織の活動」と言われても、ぼくは別に組織には入ってないけど・・。
また、ぼくの文章について「大多数」の人がどう感じるかでなく、あなた自身がどう感じるかだけを、ここには書いてもらえばいい。


まあ、この人の論理には付き合わないことにして、ただこの文章はなかなか興味深い点に触れていると思う。
それは「弱者利権」という言葉に示されているもので、特定の「弱者」の存在をダシにして金を稼いだり、自分たちの政治的目的を果たそうとする人たちが、今の世の中に大勢居る、という考えである。
それを、こうした特定の「弱者」(在日朝鮮人や野宿者)に関わる運動(そこに、ぼく自身も含まれてるみたいだが)に感じられる「うさんくささ」の原因であると、この文章の筆者は考えているようだ。
これはたしかに、世間一般にある感覚なのかもしれない。


いわゆる「運動」に限らないが、たしかに組織というものが絡むと、本来は「目的」であるはずのもの、つまりここでは在日朝鮮人や野宿者の存在や権利や生活の保障といったことが、いつしか組織を維持・発展させていくための、あるいは誰かが金を蓄えたり組織にとっての政治目的を実現していくための「手段」のようになってしまうということがあるだろう。
ここであげられている例でいうと、朝鮮総連の場合、ぼくが疑問に思うのは、組織の末端で働いている若い職員の人や、それから朝鮮学校の先生などが、生活していけないような低賃金で頑張って働いている姿を見ると、よく言われるような日本の国や社会の側の責任ということだけではなくて、やはり総連という組織のあり方にどこか歪みがあるのではないかと思えることである。
今度の強制捜査の原因になったいくつかの事件でも、「別件」による警察の国策的な捜査は不当だが、そのもとになったところに、組織としてのなにか不透明な部分、現場の人や一番弱い立場の人たち(組織に関わる人たちのなかの)が割りを食うような体質があるのではないかという疑念が、漠然とある。
朝鮮学校をはじめ、総連が携わってきた在日朝鮮人の共同体のための運動は、たいへん立派なものであると思うが、この組織自体には少なからぬ問題点があるのだろうと思う。
そこにもしかすると、なんらかの「利権」や「利用」という問題が、絡んでいる可能性は否定できないだろう。
これは、警察やマスコミ、世論が一丸となった「総連バッシング」のようなこととは、別の話である。


また、野宿者の運動についていうと、ここでは経済的な利益に関する問題と、政治的な目的のための利用ということとを、分けて考えたほうがよい。
この運動の場合、大きなお金が動くとすれば、行政に関わることでしかありえない。そういうことがあるのかどうか分からないが、もし「利権」といえるような問題が発生するとすれば、それは行政の対策に比較的近い運動の場で起きるはずだ。
ただ、この運動には行政の協力やお金が必要なことは確かなので、行政に近い場で運動が行われるということの意義は簡単に否定できない。組織運営の透明性の確保ということが、当たり前だけど重要であろう。


一方、行政から距離を置いた、むしろ対立的であったりする運動体の場合には、金の流れに関与するということがないのだから、「利権」というふうな問題は起こしたくても起こしようがない。むしろ、ここでは政治的な目的のために野宿者の存在を利用してるのではないかという、よく出される疑いがテーマになるだろう。
だが、ここでは二つのことを言っておくべきだろう。


① ひとつにはそもそもその政治的な主張自体はそんなに間違っていないように思える、ということだ。それはたとえば、野宿者が公園にテントを張って住むことの権利を確保しようとすることを通じて、人権上の意味では日本の法律に明記されていない「居住権」というものを、住民一般、居住者一般にわたって確保していこうとする主張であり実践であったりする。このような意味で「居住権」が法律的に認められるに至ったいくつかの外国の事例を見ても、国家にそうした権利を法的に認めさせるためには、果敢な市民的な闘争というものがやはり必要なのである。
また、「居住権」に限らず、そもそも野宿者の生存の権利そのものを確保していこうという目的であるなら、それが間違っているはずはない。
だから、この主張自体は基本的に間違っていないと思えるが、その手法が間違っている場合、つまり究極の目的であるはずの野宿者その人の「存在」の尊重ということが十全になされない場合がありうるということである(目的の手段化)。


② そして二つ目には、これは総連の活動についても言えることだが、組織が政治的に目的にしているところと、組織に関わる個々のメンバーの思いや行動とは、最終的は同一視するべきではない、ということである。
ある組織や団体の行動が「弱者の政治利用」だと思われるからといって、そこに属する個々のメンバーの、個々の当事者や集団に対する思いが、その組織の意図に収斂されるものだということはない。
だから、たとえば「野宿者のテントを撤去するな」という訴えに、なんらかの組織や集団の政治目的が含まれているとしても、それだけでこの訴えの切実さを否定したり薄めてしまうるものではない、ということである。


今書いた、この二つ目の点から、今日のエントリーの結論のひとつが出てくる。
それは、「利権」や「政治利用」にまつわる「うさんくささ」を言うことは、その指摘自体は誤りでない場合があるが、だからと言ってある人たちを救済しようとする個々の人たちの行動や思いの正当性や切実さを否定したり、引き下げたりする理由にはなりえないということである。
それは多くの場合、「組織」に問題があるのであって、個々の人間たちの思いや行動にけちをつけるわけにはいかないのだ。


また、集団や団体のレベルで言っても、たとえば「利権」を生み出すような組織の腐敗・閉鎖性や、社会全体の仕組みといったものは批判されるべきだが、それがある目的・理念のために団体を作るということの意義の否定につなげられるべきではない。
これも至極当たり前だが、どういう組織なり集団性を作るかということが大事なのだ。


最後に、総連や朝鮮学校に対する弾圧の問題にせよ、野宿者に対する行政の排除的な政策の問題にせよ、それらが世間から黙認され、社会の中のある人々に対して、「社会の外にある存在」というふうなレッテルが貼られて、法や制度・秩序の名の下にその排除が進められていきつつあることに、ぼくは強い危機感を抱いている。
それは、人々が自分や他人の存在の有り様、生きていることの有り様を、根本的なところで見失いつあること、またそのことそのものを否認しようとしていることを意味すると思えるからである。
どんな人間も、レッテルが貼られうるような存在として生きてはいないはずだ。