最近のコメント欄から

このところ、各エントリーのコメント欄に大量の匿名の書き込みが続いていて、すごく困ってます。
ほとんどは、「早く左翼教、文学教を脱して、あなたも現世教の信者に!」といった趣旨の内容で、「間に合ってます」という感じなんですが、いくつかすごく気になったコメントがありました。
それらについて、少し思ったことを書いてみます。


ひとつは、『06年最後のエントリーは、労働運動について考える』と題をつけた昨年12月31日のエントリーのコメント欄から。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20061231/p3
こんなふうに書いてあります。

さっきからさ。”イメージ”だの、”思う”だの
あいまいな言葉ばかりつかってるけどさ・・・
実際に働く人に接したことないの?
働く人たちの組織に接して彼らの意見を
じかに肌に触れて感じたことないの?
かれらの息遣い感じたこと無いわけ?
彼らの愚痴聞いたことないの?


肌に感じてたなら、イメージしてただの、思うだの
あいまいな言い回しなんて一切出るはず無いよ。』 (2007/02/13 04:53)
# あえをう 『はっきりいおう、あんた働いたことないんだよ
働くこと、働く組織ってもんがどういうふうなのか
しらないんだよ。だから”イメージする”だの”「おもう”だの
働いたことあるひとなら絶対でない言い回しが出ちゃうんだよ。』 (2007/02/13 04:55)
# せれおう 『はきりいって、社会で生産してる現場に接したことがあるなら
労働者はかわいそう、経営者は横暴なんて”イメージ”は
木っ端微塵に砕け散ってるはずだよ』 (2007/02/13 04:58)
# すぇおう 『そうなttなくていまだにそういうイメージを抱いてるんなら
社会に一度もでたことがない、一度も物を生産したことが
無い人なんだよ。断言できるね。』 (2007/02/13 05:00)


これ、すごい熱っぽい感じの文章で、ぼくも読んだときはドキッとしたんですけど、ひとつ言えることはこの文章では、書き手は自分を「働く人たち」の側に位置づけてようとしてるということ、もっと言えば、自分を「働く人たち」として認識している人たちの共感を得るような書き方をしてるということです。
そういう位置に立って、ブログの書き手(つまりぼくですが)の文章に見られる、観念的・擬似文学的な、あるいは左翼的な性格を非難・攻撃している。
こういう文章を書く人間を、「働く人たち」という「われら」の反対側に位置づけ、そこに「左翼」とか「文学愛好者」とか「人文系のインテリ」といったイメージが結びつけられます。
そういう種類の人間の言っていることを否定し、存在を軽蔑するのが、「働く人」にとっては当然なことであるかのように語られていく。
ここから読み取れるのは、一言で言うと、「働くものたちよ、現状の仕組みに疑問をもったりするな」というメッセージです。
つまり、この書き込みの文章を読むかもしれない人の「自分は労働の現場にいるんだ」という意識に訴えかけて、現在の体制を賛美する反左翼的なイデオロギーの方に取り込もうとしてる。
ぼくには、そういうふうに思えます。


また、ここで重要なことは、「労働の場」や「生産の現場」にいない人間(ただし、たとえば「営業」職にも周到に言及されてますが)が、「働く人たち」である「われら」の反対側(敵側)のゾーンに位置づけられてるということです。
その人たちは、生産とは無縁で観念的な夢想におぼれる「中途半端な存在」であるかのように扱われ、それが左翼の社会変革的な思想の特徴とむすびつけられて、非難・否定の対象になってる。
これは、ナチス的な感じさえします。


ここに書いてある、ぼく個人への批判や、日本の左翼的なもの一般への批判は、的を得ているところもあるかもしれません。
内容そのものは部分的には同意できる箇所もあります。
しかし、この文章を書いた人や、信じてしまう人というのは、自分が生きていくうえで、一番大切で面白いものを捨て去り、封じ込めてしまってると思う。
だから一口にいって、この意見の「正しさ」はものすごくつまらない、ということです。


もうひとつ、『物乞いの聖人』と題された去年7月28日のエントリーのコメント欄から引きます。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060728/p1

# れおうせ 『酒飲んで鈍化した頭ですら理解できてしまうような
安易な理論なんて本物のわけがないんですよ・・・


泥酔して医学実習できます?金融工学理解できます?トラックの運転できます?
だけど文学理論や映画の薀蓄たれるなんて酔っ払ってでもできますよね
っていうか、かえって、酔っ払ってないとできない位ですよね』 (2007/02/14 23:05)
# せろえう 『おそらく、このサイトの主も、ブログ書くときは、
少々アルコールが入ってて、いつもより気が大きくなっていて、
社会をうえから見下せるくらい高い位置に自分がいるような
感触におそわれて、妙に気分がよくなってるとおもわれます。
(ボクもそうでしたんでこの心理はわかるんすよ。)


これってものすごく危険ですね。
現実社会にもどれば
飲み屋から出て寒風にさらされた時のように、
一瞬で醒めるもんなんですが・・・


でも、しばらくリアル世界と接してないと、
醒める機会をもたぬまま
ずっと酔っ払ったまま戻れなくなっちゃうんですよ。


サヨクやカルトは精神的なアル中です。だから、早く手を打ってね。』 (2007/02/14 23:13)


この文章も、「なるほど」と思わされるところはあります。
しかし結局書いてあることの結論は、先ほどと同じで、知識や能力の乏しいものは、現状の社会の仕組みに疑問などもたず、秩序に従って生きてればいい、というだけのことです。
「リアル世界」とか「実学」の世界の現実に目覚めないで、いつまでも文学や映画の世界にいつまでも酔っているのは「すごく危険」だとされ、それが社会主義の「夢」の悲惨さに結びつけられるのでしょう。
ぼくは個人的な忠告としては承りますが、このコメントの筆者の言う「リアル世界」や「実学」が唯一の現実だというなら、その現実こそ疑うべき「夢」であると思い、その「夢」にすっかり取り込まれてしまわないために、人は上手に酔い続ける必要がある、と言いたいと思います。
この筆者は、あるところで彼のいう「現実」に目覚めたわけです。個人史のうえでのこととしては、ぼくはそれを尊重しますが、この人の書いていることの結論を読めば、それは「現実」と呼ばれるものへの、ひとつの帰依にすぎない経験だったと思う。
自分の中の夢を見る力、つまり社会の現状の仕組みに疑問をもつ能力・可能性というのを、自ら抑圧したわけです。
その人自身の生においては、それは文句を言われる筋合いのないことかもしれないけど、困るのは、そこから出てくる見解を書いたこのコメント欄の文章が、これを読む他の人たちにとって、抑圧的に働きかねないということです。
つまり、「能力のない奴は発言するな」、そして「考えるな」「疑問をもつな」という禁止・抑圧のメッセージとして、それは働く。
これは、よくないことです。
自分が断念する(大人になる)ということが、他者への抑圧を帰結するというのは、最悪のことです。


だから結論として、ぼくが言いたいことは、「現状に疑問をもつこと」や「あまり自信がなくても発言すること」は、とても大事だということです。
それから、「表現する」ということは、人間にとってとても大事なことだと思いますが、表現が十分な強度を得るためには、ある種の「酔い」が不可欠です。自分の「現実」の身の丈を忘れ、一瞬越えてしまうような「酔い」を介してだけ、届くような生の現実があり、社会があるのだと思います。
ぼくに欠点があるとすれば、むしろそうした「酔い」の能力が乏しいということでしょう。


まとまりませんが、今日はこんなところで。
愛情溢れるコメントの束を、お待ちしています。