mojimojiさんの「野宿者を怖がること」について

mojimojiさんのこちらのエントリーに関連して、少し思ったことを書きます。

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070208/p1


ここで考えられてるのは、すごく重要なことだと思う。
たしかに、なんらかの意味で弱い立場にある人が切実なものとして感じる恐怖を、それは偏見であるとか、合理的でないといって否定しても、どこか届かないことがある。
この恐怖の切実さには、尊重されるべきなにかがあるように思う。


だから、次のように展開していくことはよく分かる。

恐れつつ、しかし、排除しないことは、理性的には可能なことだ。


そして、

だから、こういう人たちに提示しうる選択肢は二つだ。知り合うことは面倒だから、近寄らない。そうでないならば、共に同じ場にいることが可能な程度に、知り合う。


このふたつの選択肢のうち、とくに前者、そもそも近寄らないという方策の有効性は、もっと強調されてよいかもしれない。
いずれにせよ、相手に対する恐怖が消し去りがたく、しかも「排除してはならない」(「相手が存在することまで否定してはならない」)と考えるなら、大なり小なり距離を置くしかない。
それでいいのだろうと思う。


ここで言われていることをなぞるだけになるが、自分なりに整理してみる。
「野宿者は危険な人たちではない」という言説は、ぼくも乏しい経験からしてそんな印象をたしかにもつが、それは切実な恐怖心を持っている人に対して有効な言葉であるとは限らない。それは、上に言われているとうりだ。
そのひとつの理由は、どんな人間も「危険な人」になりうるからである。
つまり、「野宿者だから危険だ」という考えは、もちろん誤謬であり偏見なのだが、ある野宿者を見て「怖い」と思う感情自体を否定することはできない。というより、否定しても仕方がない。
mojimojiさんが言うように、「怖い」と感じるから差別なのではなく、「排除したい」と思ってしまうところに差別意識が、生命の否定につながる意識が生じるのであろう。


しかし、「どんな人間でも危険な人になりうる」のなら、なぜいくらかの人たちが、非野宿者よりも野宿者を、「怖い」と感じてしまうのかということは、もちろんやはり疑問である。
ひとつの理由として考えられるのは、野宿している人は社会的管理の対象になっていないから、ということではないか。
いわゆる「一般人」には、会社や学校や家族といったものへの帰属があり、住所もあり、要するにそれは社会的な管理の対象たりえているということである。
そういう人たちは、ちゃんと管理されてるのだから、まあ大体安心だ、という感覚があるのではないか。
どうも管理されてなさそうな存在であるホームレスは、歯止めもないし、何をしでかすか分からないという、恐怖、不安。
そうだとすると、これは逆に言えば、安全(安心)を確保するために、社会の全員が管理されているような社会が求められていく、ということになるだろう。
たしかにそういう傾向があるように思うが、自由や他人の存在(生命)より安全(安心)が優先される社会というのは、やはり変だと思う。
またさっきの話で言うと、「尊重されるべきだ」とした「恐怖」という感情も、ここでは変な形で押さえ込まれてしまっているようにも思える。


最後に、性についての問題。
もちろんすごく大事な点だが、そもそも「野宿者=(独身で中高年の)男性」というイメージが出来上がってしまっているということだろう。
だが現状は、そこからどんどんずれていってるのかもしれない。