集団と支援

東京の野宿者問題の現状を報じる記事から。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061207-00000133-mailo-l13


東京での野宿者に対する行政の支援というのは、大阪などとはまったくやり方が違っているそうだ。施設に収容しないで、アパートなどで住居を提供して自立を促すというやり方は、画期的なようだが、やはり限界がある、という話題。
野宿者の問題については、基本的には経済や社会の構造の問題で、個人の倫理(「ホームレスは怠け者だ」といった)みたいなことにすり替えられてはいけないと思う。
「住所がないと再就職できない」「住所がないと生活保護も断られる」といった根深い社会の構造や、失業や住宅の問題、「公園の適正化」といった行政の考え方も含めて、考え直されるべきだろう。
それになんといっても、この人たちが「なぜ孤立してしまうのか」ということ、つまり社会や家族などの帰属集団のなかに、「ホームレス」の人たちを生み出して放り出すメカニズムが内在しているのではないかという問いかけは、もっと多くなされていいように思う。


また、こういう話題に接していつも思うのは、「自立を支援する」というときに、個々人だけをその対象にするというやり方では駄目なのではないかということだ。周囲の人たち、親戚とか、友人や仲間とか、同じ宗教の信者とか、組合員とか、隣近所とか、互いに支えあうような形ではじめて成立するような個人の生き方というのもあるだろう。
そういう集団から切り離されたバラバラな単位として個人を見て、それだけを「自立支援」の対象にする。集団については、むしろその独立性(国や市場に対する)を否定し、力を削ぐようなことをやっているというのが、今政府や行政が行っていることの大枠ではないかと思う。教育基本法の改悪にせよ、共謀罪にせよ、そういう傾向のものとして理解できる。
このままで行くと、国や「国際社会」や資本といったすごく大きな集団の論理に一元的に同一化した個人しか生存できないような社会になっていくと思う。これは、みんなにとっても、自分ひとりにとっても、生き方の幅が認められない社会になるということで、大変辛いことである。
個人を中間的な集団から切り離し、バラバラな単位として国や市場の大きな論理のもとに直接組み込んでいこうとする今の政府・行政の方向というものが、ぼくにはとても不快である。