高嶺さんの個展を見て

下でお知らせした大阪市内で開催中の高嶺格さんの個展に、友人たちと一緒に行ってきた。ちなみに、この友人というのは、二人とも妙齢の女性である。今年はいいことがありそうだ(発想が、完全にオヤジ化してますね)。


三年前に近江八幡で行われた高嶺さんたちの結婚式の模様を題材とした、映像と言葉のコラボレーションともいえる表現。
私的で政治的でもある内容を、真摯に作品化されていたと思う。高嶺さんの誠実なお人柄が強く感じられる作品でもあった。
表現の形式について、一緒に行った友達のひとり、在日の女性なんだけど、面白いことを言っていた。
長大な巻物のようなパネルの上下に、結婚式の流れを写したたくさんの写真や映像と、作家の思い・思考を記した言葉とが、並べて連ねられていく。それを、二つの異なる質の作品が並置されているようであると言い、映像という色々な解釈・連想の自由を許す表現と、言葉というときには明確に断定してしまう表現との拮抗、ぶつかりあい、みたいなこととして感じとっていたようだった。
なるほどなあと思って聞いた。


これはもちろん、(男女である)夫婦のあり方に関係している作品でもあるわけだが、表現の二つの質のぶつかりあいということを考えると、(マジョリティ・マイノリティということ以外に)なにかジェンダー的な葛藤という要素がその底にあるようにも思えてくる。
もっと面白いのは、言葉がもつ重要な要素のひとつである、明確に言い切ってしまうという行為が、映像の「自由」に対するたんなる抑圧や侵害ではなく、相互の拮抗による表現の強度の高まりを生むものとして、ここでは肯定的に捉えられているということである。
在日と日本人とか、男と女とか、政治と私的生活とか、この作品があらわしている「対立」的なもののダイナミズムの性格を、この友人の感想はよく捉えてる気がして、感心したのである。


言葉で断定できないものは、この世に多くあるが、断定や明確化を避けることが、そのものの存在を尊重することになるとは限らない。
言葉で切り込んでいくことにより、言葉にならないものに、言葉に拮抗し、抵抗する力が与えられ、そこから打ち返されてくる光が、言葉という硬直したものの繊細な内実を照らし、そこに命をふたたび宿らせ、生の世界に立ち返らせるということもある。
そういうダイナミックな関係性、鋭い拮抗から生じる相互の回復の過程としての「和解」の可能性のようなものを、あの作品から感じとることができたのではないかと思う。


また作品の最後に、これから自分の存在や位置について自問し、見つけなければならないのは(在日の人たちではなく)僕のほうだ、という意味の作者の言葉が書かれてたと思うが、色々な意味で同感できると思った。