『エミール』第五編

エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 )

エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 )

女性は、気に入られるように、また、征服されるように生まれついているとするなら、男性にいどむようなことはしないで、男性に快く思われる者にならなければならない。(今野一雄訳 岩波文庫版下巻 p7)


1月から岩波文庫の『エミール』を読みだして、先日、上中下3巻をやっと読み終わった。
『エミール』は独特な教育論として有名ではあるが、第4編に入っている「サヴォワ助任司祭の信仰告白」で語られた感情主義哲学と呼ばれるもの(理性より感情を優位におく)や、階級社会に対する徹底的な反感を語っていることなど、ルソーの思想の諸側面をよく知ることのできる本だということは間違いないだろう。
そのうち、後者(階級社会の否定)については、次のような一節にもっとも力強く示されているといえる。

あなたがたは社会の現在の秩序に信頼して、それがさけがたい革命におびやかされていることを考えない。そしてあなたがたの子どもが直面することになるかもしれない革命を予見することも、防止することも不可能であることを考えない。高貴の人は卑小な者になり、富める者は貧しい者になり、君主は臣下になる。そういう運命の打撃はまれにしか起こらないから、あなたがたはそういうことはまぬがれられると考えているのだろうか。わたしたちは危機の状態と革命の時代に近づきつつある。その時あなたがたはどうなるか、だれがあなたがたに責任をもつことができよう。人間がつくったものはすべて人間がぶちこわすことができる。自然が押したしるしのほかには消すことのできないしるしはない。そして自然は王侯も金持ちも貴族もつくらないのだ。(上巻p 346)

おそらく、この文章にあらわれているような力が、ルソーが明治の民権思想家やその後続の人たちに与えた影響の核心をなしているだろう。
といってももちろん、フランスとちがって日本では、共和制革命のようなことは起きなかったわけだが、それでも、その可能性を十分に実現できてはいないという意識をともないながらも、むしろ、だからこそルソーが日本の「進歩的」と呼べるような思想や運動に与えた影響は小さくなかったのだと思う。
しかし、そうなった理由の一つは、ルソーが社会制度のもたらす悪を非難し除去するための、そこに戻るべき原点として「自然」という理念を掲げたのが、近世の儒教的教養で育った日本の思想家たちには馴染みやすかったということではないだろうか。とするとこれは、(「自然」を「天道」に、さらには「天皇」に置き換えれば)一種の皇国思想のようなものに回収されてしまう危険もある気がしてくる。


話がそれたが、ルソーの「自然」については、また後で考えるとして、今日書きたいことは、冒頭に掲げた一文に端的に示されているように、『エミール』第5編で長々と述べられるルソーの女性差別的な思想についてだ。
そこまでの論述が、子どもである「エミール」を社会と情念による悪から隔離して守るために、教師(ルソー)による徹底的な操作に関するもので貫かれており、これはプラトン『国家』のあんまりな教育論とは、また違ったあんまりさを感じさせて、とても単純に首肯できないものであるとはいえ、社会批判や、人間というものに対する根本的な捉え方の点で、いま読んでもやはり感動するところの多い内容であるのに比べて、第5編の女性差別的言説は、僕もちょっと他に読んだことがないぐらい、あからさまなものだ。
「当時はそういう時代だから」というのは、確かにそうだろうが、他の事柄についての立派な見解と読み合せると、これほどの人でもこういう考え方に陥ってしまうほどに、性差別の偏見の根は深いのだと実感せざるをえない。
僕には、うまく整理して論じるということが出来ないので、印象的な個所を順に引きながら考えてみよう。

女性は容易に男性の官能を揺り動かすことができるし、男性の心の底にもうほとんど消えてしまった欲情の残り火をかきたてることさえできるのだから、この地上のどこかの不幸な国に、哲学がそういう風潮をもたらしたとしたら、とくに男よりも女がたくさん生まれる熱帯の国では、男性は女性にいじめられて、結局、その犠牲となり、みんな死に追い込まれるような目にあいながら、どうしてもそれに抵抗することができない、ということになるだろう。(下巻 p8)

こういう個所を読むと、ルソーの女性への偏見は、恐怖心とあいまったものだったのではないかという気がしてくる。その恐怖心は、女性を抑圧していた当時の男性中心社会全体の気分のようなものと、ある程度は共通するものと考えてよいだろうとも思う。
そして、ルソーの女性観というのは、女性は従属的な生を強いられている(そのこと自体はルソーにとって「自然」なことである)がゆえに、強者である男を操る技巧にたけた存在だということである。
そういう技巧的な生というものを、一種の自然の摂理として、ルソーは肯定する。それは、(男性の)暴力を抑制するようなものでもある、という。

あらゆる行為のなかでこのうえなく自由な、そしてこのうえなく快いその行為は、ほんとうの暴力というものを許さない。(p10)

暴力の抑制は結構だが、その役割が女性にだけ割り振られているのは、いま読むと、いかにも「不平等」であり、したがって(ルソーのいう意味での)「自然」ではないという気がする。
ルソーは、不平等な社会制度の悪を批判して、「自然」に帰るべきだというが、性に関しては、その「自然」とは女性が男性に服従するということであり、女性はその服従のなかで密かに男性を操作するような知恵と技巧を身につける(育む)ことで、両性の協力による良き社会が実現される、ということになる。

ごらんのように、こうして肉体的なことが知らずしらずのうちにわたしたちを道徳的なことに導いていき、また、両性の粗野なまじわりからしだいにこのうえなくやさしい恋愛の掟が生まれてくる。女性の権力は男性がそれを望んだからではなく、自然がそう望んでいるからこそ女性に与えられているのだ。(p12)

この部分を読むと、ルソーの「自然の摂理」、自然による予定調和みたいなものに対する信頼がうかがわれると思う。
自然の(であると思われる)秩序にしたがうことが最善の道だ、という考え方だ。
ルソーにとっては、「自然」が神のようなものなのであろう。

そういう習慣的な強制から、一生を通じて女性に必要な従順な性質ができあがる。(中略)女性の基本的な、そしてもっともたいせつな美点は、やさしくするということだ。男性という不完全な存在、しばしば多くの不徳をもち、いつも欠点だらけの存在に服従するように生まれついている女性は、正しくないことにさえがまんをし、夫が悪いときでも不平を言わずに耐え忍ぶことをはやくから学ばなければならない。(p32〜33)

男性が不完全で不徳を多く持ちさえする存在であることを認めていながら、「男が悪い時でも文句を言わずに服従すべし」という物言いから、僕は先日物議をかもした上野千鶴子の発言を思い出した。
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/hiroba/list/CK2017021102000006.html


「日本人は多文化共生に耐えられないから移民を受け入れるな」というのは、日本人の性質なるものを「自然」の意思によって定められた、変えようとするべきではないもののように考え、不正義のように思えてもそれを保持していくことが結局は良き社会の実現につながるのだという発言は、ここでのルソーの発想に似ているように思えるのである。
こうした発想は、他には柄谷行人のカント主義的な社会観にもみられると思う。そこに共通して感じるのは、「自然」という神のような概念に名を借りた、反抗や行動に対する虚無主義的な反感、つまりシニスムの表出だ。


さて、『エミール』に話を戻すと、さっき少し書いたが、ルソーは上記のような考え方にもとづいて、女性は男性を(いわば)賢く操縦する技術を、子どもの頃から学び、身につけるべきだと語る。

両者は相互的な依存状態におかれ、女性は見る必要のあるものを男性から教えられ、男性はなすべきことを女性から教えられる。(中略)それぞれが服従しながら、両者ともに主人なのだ。(p48)

女性は、自分にはできないこと、しかも自分にとって必要なこと、あるいは楽しいことをすべて、わたしたち男性にさせる技術を知っていなければならない。(p69)

服従をとおして、相手を操縦し支配する。これはしかし、ルソーが本書『エミール』を通して語ってきた教育論と、どこか似通っている。
もちろん、子どもであるエミールに対する教師は、男性に対する女性のように、服従を強いられる弱者ではない。
だが、この教師(私)は、子どもの内なる自然に逆らうことなく、命令(暴力)によってではなく、技巧的な操縦によってエミールを導いていこうとするのである。そのやり方は、先にも書いたように、一種の「支配」と呼んでいいものを含んでいる。
とすると、ルソーがここで書いている「女性」の性質や技巧というものは、実はルソー自身のなかに深く根付いているものでもあったのではないかと思えてくる。つまり、ルソーの女性に対する偏見や、怖れ、また屈折した賛美といったものは、ルソーが内に秘めて抑圧していたものを、その反動的な価値観に呪縛されたままでどうにかして肯定しようとしたことの産物ではなかったろうか。
そうした内なる「女性」との葛藤が、ルソーのここでの女性論の紙背に読みとられるもののひとつであり、それはまた、ルソーが認めたくない彼自身の「自然」に対する恐怖やシニスムと結びついていると考えるのは、うがちすぎているだろうか。
そういえば、この第五編にはこんなことも書いてあるのだが、これはまた、きわめてルソーの自分語りのような言葉であると思う。

女性はうそつきだ、と人はわたしたちに言う。女性はそうなるのだ。女性に固有の天分は、器用であることであって、うそつきであることではない。女性のほんとうの傾向からいえば、うそを言っているときでも、うそつきではないのだ。なぜあなたがたは女性の口からその考えを聞こうとするのか、口が語るのではないのに。(p65)