カルボナーラと立岩真也

年が明けて二日間はボーっとして過ごしたが、今日は少し動きがあった。


年末から会おうといっていた京都の友達から連絡が入り、午後家を出て、阪急に乗るため梅田へ。約束の時間には間があったので、三番街をぶらぶらしてると、二体の獅子舞が練り歩き芸を見せているところに遭遇。珍しいので足をとめて見てしまう。
夕方、河原町で友達に会ったのだが、ものすごい人出で圧倒された。大阪は結構暖かく感じたので、コートの下はワイシャツに薄着のセーターを着ていったのだが、京都に入ると肌寒く感じられたのは気のせいか?
混雑を避けて少し中心部から離れたところにある喫茶店に入り話をしたあと、ウイングス京都の向かいにあるセカンドハウスという店でパスタを食べた。
ぼくはベーコンなどの入ったカルボナーラを頼んだのだが、それはすごく美味しかったんだけど、ややショックだったのは、この一皿が重くて食べきるのに一苦労だったことだ。最近、年齢のせいか食が細くなってると感じているのだが、いくらカルボナーラとはいえ、パスタ一皿を食べきるのに難儀するとは。
新年早々だが、ちょっと切ないような気持ちになった。


行きかえりの電車の中で、このところえっちらおっちら読んでいる立岩真也著『自由の平等』を少し読みすすめる。
ぼくにはすごく読みづらい内容と文体なのだが、辛抱強く読んでいると、素晴らしいと思える箇所にたびたび突き当たる。
ぼくは引用ということがとても好きで、一部分だけを切り取って、このように引用をすることはよくないのかもしれないが、とくにこの本の場合、下手な要約のようなことをするより、こういうふうに一節をそのまま抜き出して魅力の一端に触れてもらうという紹介の仕方の方がいいようにも思う。
それで、今日読んだところから、一箇所だけ引いてみる。
これは、立岩が主張する強制的な徴収・分配が、なぜ「国家」という冷たい装置によって行われることが望ましいと考えられるのかの、理由のひとつに関わる記述である。

その人をその人として認めるとき、むしろその人から遠ざかろうとする。距離を置くこと、人を一様に扱うことは、その私性を控えようとする意志に支えられている。(中略)そんなことがいくつかある中で、個別の私が個別の誰かに向かう限り、そこには私の私性があり、好きか嫌いかが入っていて、むろんそのような対し方が関係の中核をなすような関係もあるのだが、他方でそんなことがその人がその人としてあることを奪うことがあることを知る。その人の存在を支持しようとしたとき、そのような関わりを控えた方が良いというあり方が、私がその人に向うこと自体の中にある。その人が他人であるためには私が控えていた方がよい。(中略)普遍性は降ってきたものではなく、個別の人の個別の経験から始まっていて、そこに内在するそれを越えていく契機によって支持されるものであり、そしてその意味で、それはリアルな、現実的なものである。(中略)好悪とは異なる水準にある承認がある。誰かを気にいることや他の誰かは気にいらないことはなくならないだろう。ただ、それと少し異なる位置にある肯定・承認がある。(p143〜144)


このようなものとしての「普遍性」のとらえ方、またそれはリアルなものだという立岩の言葉に、とても共感できるものを感じる。
それは、後期のフロイトの考え方に近いものだという気もする。『論語』や伊藤仁斎を読んでいても、こういう考え方を感じるときがある。
ぼくは、体質的にこういう考え方が好きなのかもしれない。
だがそれ以上に、このくだりを読んで分かることは、立岩の社会思想が、人と人との適切な距離の維持ということが難しくなった現在の社会を生きる具体的な経験・苦闘から生み出されてくるものだということだろう。
言い換えると、普遍性というものが、じつはそういう個々の具体的な生の経験に根ざし、『それを越えていく』契機に支えられているものだという事実を、自覚せざるを得ない時代の現実を、フロイトと同様にこの著者は正面から見つめているということではないかと思う。
その思想が、この時代に生きる誰にとってもたいへん身近なものである理由が、そこにある。