06年最後のエントリーは、労働運動について考える

はじめに、『冷凍フラミンゴ』さんというブログで、このブログをリンクしてくださることになったそうです。ありがとうございます。


さて、先日、tu-taさんから、コメント欄でこちらの記事をご紹介いただいた。
公務員の労働運動の今後の方向性について書かれたもので、まことにもっともと思われる内容である。
それに関して、12月21日のコメント欄に少し意見を書いたのだが、ここではもうちょっと基本的なところを考えてみようと思う。


労働運動という言葉には、搾取されている貧しい労働者たちが、資本家や権力者たちに対抗して自分たちの生活と権利を守るために団結してたたかうもの、というイメージがぼくにはあり、実際そういうものとして多くの人に自覚されながら行われてきたんだろうと思う。
それが経済成長により社会が全体として豊かになってくると、「働く者」とひと括りには出来なくなってくる。もともと出来なかったのだろうが、出来ないことが、それまでとは別の局面においてもあからさまになってくるわけだ。
公務員の労働運動の場合、今の日本社会全体のなかで公務員一般は「貧しい人」「立場の弱い者」の範疇に入らなくなった。もっと給料も安く、保障もない人たちは多くおり(ぼく自身もそうだが)、自分たちの生活水準や権利を守ろうとする公務員の労働運動が、そこから見ると独善的に見える場合もある。


いや、そういうことじゃないな。
労働運動は基本的に「貧しい労働者」や「立場の弱い労働者」の生活や権利を守るためのものである。その対象には、今もって公務員自身が含まれる場合もありうるが、同時に社会のなか、職場のなかでの立場の弱い人たちを守るためのものでなければならない。
そこに焦点が当たっていないのであれば、それは労働運動としてはどこかおかしいのであり、そのおかしさにつけこまれるように、経営する側、管理する側の装置の一部として機能する場合もあるのではないか。そんな気がする。
たとえば公務員が、自分の生活を守るために、行政による悪い政策に従って仕事をするということはあるだろう。公務員に限らず、こういう「後ろめたさ」をまったく持たずに社会生活を送れる人は、ほんとうに少ないと思う。どんな職種でも、社会悪にまったく加担しないということは難しい。
しかし、そこに「後ろめたさ」はあるべきだし、自分の仕事や生活を放棄してでも弱い人たちの側につくという選択肢があることは、ほんのわずかであっても常に考慮されているべきだと思う。そうする自由は、常に労働者(公務員)個々にあるはずなのだ。
「一市民としての自分の生活を守れ」という律法のようなものに、支配されるいわれはない。


世の中にはもっと貧しい人や、立場の弱い人たちも居るけど、自分の生活も大事だ、というのはまったくその通りだが、そのことだけに縛られるほど人間の存在はちんけなものではないと思う。
こう考えると、労働運動が守るべきものは、たんに労働者自身の生活や権利であるだけでなく、それらが可能になる基盤であるといえるように思う。
今の社会では、個別的に言えば日本社会では、この基盤そのものが脅かされている。
だからそこに戦いの矛先を向けることが、当然考えられなくてはならないと思う。


結局、tu-taさんの文章への蛇足みたいな内容になった。
2007年も、抽象的でも断片的でもないエントリーを書くことは難しそうだ。