壁で区切られている空間とは

この一年は、身近なことや国内の出来事についても国際社会においても、この世のいろいろな場所に境界を隔てる壁のようなものがあって、その壁の内側で想像力や共感のあり方のようなものが人工的に操作される度合いが加速度的に強まっているのではないかと感じること多かった。いま振り返ってみると、そうだった気がする。
人工的なものが、そうでないものを圧倒しつつあり、それに耐えられない人や抵抗しようとする人たちが、多くの場合はやむなく、壁で区切られている空間ではない、別の位相の空間を見出そうと動いている。動き始めている。
そういう動きと、自分自身が生きている現実のあり方との距離と関わりを、ずっと考え続けている。


30日の夜に見たETV特集の「2006年夏 戦場からの報告 〜レバノンパレスチナ〜」でも、浮き彫りになっていたのは、「壁」を隔てた人間同士の想像力や感覚の質的な断絶のようなものだった。
占領やイスラエル軍の攻撃を日常的に経験していない日本の市民には、パレスチナレバノンの人たちの心情が分からない。イスラエルに住んでいない他国の人間には、あの国の孤立した状況が想像できない。これらの了解不可能性についての信仰のなかで、何か得体の知れないものが膨れ上がっていくという感じ。たとえば、「ホロコーストを経験したわれわれには全てが許される」という、政治的に流布されたに違いない「偽の心情」がいつのまにか支配力をもってしまうということ。
李静和が鵜飼哲との対談『つぶやきの政治思想』のなかで、「内なるサバルタン」が、先進国の人たちの内部で膨れ上がってしまうことへの危惧を語っていたのを思い出す。
とりあえず、この「了解不可能性」を一度は疑う必要があると思う。
他者の内面について「想像することはできない」という言説が支配することによって、実際に利益を得ているのは誰なのか。それは、現在の世界の秩序を変えたくないと願っている者たちではないのか。
ここで考えられている「他者」も「内面」も、何か捏造されたものではないのか。


いくつもの壁で区切られたこの世界自体の人工性を、疑う必要がある。