反CPE運動への賛辞と危惧

フランスの反CPE運動は、政府側が折れてやっと決着したようだ。
たしかに学生と労働者が、立場の違いを越えて大同団結し、数百万人規模の行動を長期間持続させて、政府に政策を撤回させたというのはすごいことだ。
とりあえず、社会のなかで多くの人たちが政府の勝手な政治の進め方に対して声をあげ、たたかったということ自体が評価できる。この国では、まだ「政治」が生きているんだなあ、と思う。


労働者や学生が現実におかれている雇用の状況をかんがえると、「労働者の権利」を守るための闘争、ということにも正当性がある。ある人たちの権利を守るためのたたかいを、「既得権への固執」だといって非難し、他の人たちの利益や権利の擁護と対立するかのように言って分断させようとするのは、いまの権力の常套手段だ。今回はそれに打ち勝って、幅広い人たちがいっしょに戦えたということ自体に、現状では大きな意義があるだろう。


だいたい、労働者や若者の雇用なり、「人間らしい生活」なりを守ることが、他の人たちの利益を損ねること、たとえばより深刻な失業を生みだすことにつながるという事態は、もともと誰に責任があるのか?
フランス政府は、「グローバル化」に対応して失業を減らすためにはCPEの導入しかないという言い分だったのだろうが、「グローバル化」は台風のような自然現象ではない。フランスのような大国をはじめとした、世界中の国や企業が自ら引き起こしている事態だ。それを抑止するまともな対策をとらずに、労働者や学生の立場を弱くすることを必然のように言うというのは、筋の通らない話だ。
抗議が起きるのは当然だとおもう。


それと、フランスのような大きな国の場合、「権利」を奪われていきそうな人たちが、政府の不当な政策に対して声をあげて行動するということは、自分たちのためだけでなく、自国内や世界中で権利のない状態に置かれている人たちに加えられる、資本や大国による大きな暴力とか搾取に歯止めをかける効果も期待できる。
というか、本当は、その部分が抗議し運動する人たちのかんがえに入ってないと駄目だろう。日本でも同じことだが、自分たちがおかれている社会の不当な状況に抗議の声をあげないということは、いまの世界では、より悲惨な他の人たちの境遇を固定し、より悪化させることを意味してしまう。
より多くの他者のために、守られねばならない既得権というものが、いまの社会ではあるのだ。


しかし、今回の一連の抗議行動が、本当にそうした広がりと深さを持つことができたのかは、わからない。
端的にいって、その前に起きた「暴動」に示されたイスラム系の若者たちの状況や感情とのつながりは、今回のデモやストの参加者たちにどの程度実感されたのだろうか。
それがなければ、今回の行動は、たんなる大国フランスの「国民運動」に終わってしまうことになるだろう。フランスという国のあり方とか、いまの世界の仕組みへの根本的な批判には向っていかない。
数百万人が参加したという事実よりも、また政府に政策を撤回させたという成果よりも、この行動の過程で参加した若者たちの意識がどう変化し、そうしたより広い連帯の方向に向かうことができたかということが、本当は一番大事だと思う。


個人や特定の階級、あるいは国民内部だけの不満の噴出ということを越えて、今回の行動が本当に現代の世界を変える力を持つものだったかどうかは、今後の動きを見ていかないと分からないはずだ。