恥ずかしいこと

メルマガPUBLICITYの竹山徹朗さんが、ライブドア堀江貴文の逮捕にふれて、同誌における「ホリエモン評価の変遷」を振り返り、自問しておられる
たいへん真摯な内容で、頭が下がる思いだ。


ぼくも、このブログでは、特にニッポン放送買収の頃には、堀江擁護の立場からエントリーを書き続けていた。趣旨は、日本のマスコミの構造を経営の面から打破する力を堀江社長(当時)に期待するということだったが、ライブドアの経営の違法性が明らかになりつつある今となっては、そうした部分についての理解を十分にする努力をしていなかったことを反省するしかない。
堀江一人に罪をかぶせ、責任逃れの言動を繰り返す政治家や財界人に対する気持ちは、前回のエントリーに書いたとおりだが、司法の上の事柄については今の段階ではなんともいえないにしても、ある現象の一面だけをとらえて堀江という人の存在を手放しで誉めそやした態度は、こういう場に文章を書くものとしては正しくなかったと思う。
そこを言わないと、ぼく自身が「責任逃れ」ということになってしまうだろう。
言わないままに、人の批判だけをして通り過ぎようとしていた自分が恥ずかしい。


竹山さんの態度を見て、そう考えさせられたのである。あんな発行部数の多いメルマガと、こんな個人のブログではもちろん違うけど、そこで自分から線を引いてしまったらこういう場での言論の可能性は閉ざされてしまうだろう。


あの頃のやや攻撃的な堀江擁護の姿勢には、われながら非常に怖いものを感じている。
わざわざこう書くのは、それがたとえば総選挙で与党の大勝をもたらしたものと、決して無縁ではないように思うからである。


自分のなかのこの感覚については、竹山さん同様、ぼくもこれから考えていくとして、今回のライブドアの問題に関して目を引いたエントリーをひとつあげておくと、R30さんの「ライブドア死すともデイトレは死なず」という記事だ。



ここでは、ライブドアのような体質の企業を生み出したものは、日本の証券市場の構造的な問題にある、ということが語られていて、勉強になった。
楽天の例があげられてるが、今の日本の証券市場は、ある意味で実態を離れた競争から「降りられない」構造になってるんだということがわかった。

マスコミが指摘するべきだとしたら、「六本木ヒルズ族に対する懲罰」とかそういうことではなく、「デイトレ投資家に最適化するような行動を取る企業が出てくる日本の証券市場の構造をどうにかしろよ」ということなんじゃないのか。今の日本では、楽天なんかまさにそうだけど、株式の長期保有にふさわしい「堅気な企業」になろうとした途端に株価が下落し、M&Aなどを使った成長戦略が描けなくなってしまう。資本市場のせいで、堅気になりたくてもなれないというジレンマがあるのだ。

だから、たとえ今ライブドアを潰しても、日本の証券市場では短期売買の方が儲かるという(個人)投資家の信念を変えない限り、第二、第三のライブドアは生まれてくる。ライブドアの存在は、資本市場のプレーヤーの信念と持ちつ持たれつなのだから。