反対行動に感じること

教育基本法改悪への反対の動きのなかで、ネット上でのある反対署名には、1万8千人を越える人たちの名前が記されたという。
国会での採決直前の15日には、4000人近い人たちが議事堂周辺に集まって「人間の鎖」を作ったということも聞いた。
これらの人数を、多いと考えるか、少ないととらえるか。


たしかに、日本の人口、有権者の数、東京で暮らす人たちの総数、一晩に東京ドームに集まるプロ野球ファンの数、また30年、40年前に同じ議事堂周辺を埋めた群衆の数、そして最近でもヨーロッパやアメリカの大都市や、韓国などの街角を埋め尽くしたデモの人たちの数、それらと比べれば、今回の反対行動に参加した人の数は、異様に少ないという印象を受ける。それどころか、イラクでの戦争が始まる前にあったいくつかの反対デモと比べても、その規模は確実に縮小しているだろう。
反対行動に集まった人数や、ネット署名の人数を知った与党の議員や官僚たちは、逆に「国民の大半が改正を支持している」と受け止めて、胸をなでおろしさえしたかもしれない。
だが、ぼくは、たとえばこの4000人という人数、そして急遽行われた署名に協力した1万8千人という数字に、勇気とか希望を、また一種の深い親愛さを感じる。


昨日も書いたように、ぼく自身は、今回とくに反対のための行動をとることはなかった。
ぜひ行動したいと願いながら、客観的な理由のために参加できなかった人も多いだろう。ぼくの場合、そうした客観的な事情は関係がなかった。ぼくが反対の意思表示をとくに行わなかったのは、あえて言えば主観的な理由のためである。突き詰めればそれがなんなのか、ここでは考えない。
ただ、この法改正にはっきり反対の意思をもっていたにもかかわらずともかく行動しないことを選んだ、行動に参加しなかった一人の人間として、ぼくはとくに、東京や各地で反対の共同行動(共同でなくてもいいが)に参加した、おそらく数千の人たちの存在に、希望や親愛さを感じるのだ。
それは、人間同士としての親愛感、この語から自民族中心主義的なあるいは男性主義的な特殊なニュアンスを取り除けるとすれば「同胞愛」という言葉を使いたくなるようなもの、しかしその言葉よりも厳しい何か、孤独を媒介としてだけありうるような、人と人との共同と信頼のあり方に関わる感情。
そういうものの芽生えを、この人たちの存在を考えようとする、行動しなかった自分自身のなかに、ぼくは見出す。


この人たちの存在によって、ぼくのなかの何かが、確実に支えられたと思うし、また揺さぶられてもいるはずだ。
それがつまり、ぼくにとって可能な、連帯ということのひとつの条件なのだ。
手を携えて支えあうことと、揺さぶり脅かすこと。また、理解しあい繋がろうとすることと、怖れや戸惑いを感じて遠ざかること。さらには、感謝し心からの敬意をささげることと、反発ししのぎを削ること。
その複雑さのなかでしか、ぼくには連帯を考えられない。
しかし、どんな時代でも、ほんとうはそんな風でない連帯などあっただろうか。


ぼくのいない場所で、すべての人たちにとって大事なものを守るために、行動したこれらの人たちに、ぼくはある種の緊張とともに、感謝の気持ちと敬意を抱く。
その行動を、ぼくは確かな連帯のメッセージとして受取ったし、バトンを突きつけられたようにも感じる。それ以上に、それはたしかに嵐の海の灯台の光のように、ぼくばかりでなく多くの人の心のなかに灯ったのだと思う。
長い夜には、いつも、どこかで、誰かがなんらかの灯をともし続けていることが大事だ。


これらの人々の行動に、自分は人間としての暖かさ、熱のようなものを感じ、自分のなかの何かがそれによって救われるように思ったということ。
その「何か」のために、自分もまたできることをしていこうと考えていること。
これが、ここでぼくが言いたかったことの全てである。


『黙々と‐part2』
強行採決、言葉もない・・ | 黙々と-part2