長居公園に行くことにした

月曜日に予定されている長居公園の行政代執行、いろいろと事情があってどうしようか迷ったのだが、やはり現場に行ってみることにした。
早朝までに行政側によって封鎖されてしまう可能性があるので、日曜日の夜、そう遅くならないうちに現場に入ろうと思う。
今回は「報道規制」がなされるようだという情報もある。自分の目で見ないと分からないことが多いだろう。


きのうブックマークしたのだが、橘安純さんのブログ『路傍たたずみ見つめている』に、「長居公園仲間の会」のビラの内容が紹介されている。
ぼくも、分かりやすい文章だと思ったので、ここでも紹介しておく。
http://robou.exblog.jp/5425037/

わしら野宿者が、人間として存在することを認めてくれ!
わしらが必死で守っている人間としての尊厳を踏みにじり、
蹴散らし、強制収容して、何が自立支援や。
自立支援というからには、わしらをまず、
人間として尊重してくれ!

結局、ここのところになるのだろうと思う。
野宿者の支援のあり方についても、行政のこのことへの対処の方法についても、公園の使用ということをめぐっても、色々な考え方や立場があるだろう。
だが、少なくとも今の大阪市のやり方・態度は、そうした技法上・理論上の分岐以前の根本的なところで、野宿している人たちの存在を「人間として」認めていないものなのだと思う。
この根本的なところでの承認が、尊重が求められているのだ。
この声にどう応答するかは、もちろん行政だけの問題ではなく、ぼくら自身が問われてることでもあるだろう。


もう少し踏み込んで書く。
野宿している人のなかには、この場所を追い出されると生活圏や、共同的な生活の場を失うので、またこの公園の近くに来て街路にダンボールを敷いて寝泊りするしかないと言ってる人もあるそうだ。
長居公園の場合、野宿の人たちの間のコミュニティーだけでなく、周辺の地域住民との関係を作り上げることにも積極的な取り組みがされてきたそうである。
とりあえず、この努力の積み重ね、また、人の生活の場が現にそこに築かれて在るという事実に対して、まず行政は配慮するべきだろう。それが、法解釈や行政・支援のあり方の論議以前の、根本的な「承認」「尊重」の問題につうじる。
具体的な生活の場・コミュニティから人間を切り離し、根こそぎ奪いとる行政のやり方に、「人間として」相手の存在を尊重する姿勢があるとは、とても思えない。


そして、「人間として」相手を尊重しないこの姿勢が、いまや「行政」の、また組織や人間自身の当たり前の姿のようになりつつあることが、より怖ろしく、悲しいのだ。


多様な方法によって行われるだろうという今回の抵抗・抗議は、いま現在もあり、今後も加速することが予想される、大阪市の「野宿者排除」と呼ぶべき動きに対抗し、牽制する目的で行われるものといえるだろう。
それは、大阪という特殊な場所の、公園で野宿する人とその支援者という特定の人たちに関わることだが、同時に、行政と人間との間の関係、また「人間として」「生命として」の他人や自分自身との関係という問題を、ぼくたちに差し返してくるような行動であろうとも思う。
そういうことを目にして、そこからなにかを、自分なりに受け継ぐことができればよいと思う。