言葉と実感

さっき近所の古本屋に寄ったら、古井由吉の競馬エッセイ集『折々の馬たち』があったので、即座に購入した。単行本で450円。この本は、いまちょっと手に入りにくいはずだ。
競馬についての文章は、この人のものが日本一だろう。いや、たんに「日本語の文章が日本一巧い人」でいいのかも知れんが。


ところで、今の若い人のなかには、難しい内容の本を幅広く読んでいる人が結構いる。昔はもっとそうだったという人もあるかもしれないが、その読書への情熱の根っこにあるものが、昔のような理念的なものでは必ずしもなくて、昨日書いたような繊細な、自分の生活と生や関係についての実感のようなものである。
そのことの限界ということを、昨日は言おうとしたのだが、でもそういう土台からはじめて、言葉を学び勉強を積み重ねようとすることには、未知の可能性と苦労があるだろうと思う。
そして、そういう自分の身近なところのリアリティを土台として、そういう格闘をしているわけだから、その言葉にたしかな説得力が含まれ、他人に働きかけるということもありうるわけである。
限界や問題はあっても、その試みというのは、尊敬に値する。ぼく自身は、そういうことが出来なかったと思うからだ。


「言葉の空虚さ」というような今の「若者」についての一般的な批判ほど、空虚な言葉はないだろう。