バッシングについて

自分も気がつくと、他人に対してバッシング的な言動をしているときがある。
その人の発言や、存在感のようなものが、なにかの意味で自分にとって脅威であると感じられる場合、攻撃をかけることによって、その自分のなかの不安感や居心地の悪さから逃れようとするのである。
普段は押さえているが、酒を飲んだりすると噴き出すことがある。


ところで昔は、「糾弾」という言葉がよく使われていた。「糾弾」と「バッシング」は、もちろん違うものだが、似ている点もある。それは、批判の内容よりも、批判によって相手に攻撃を加えていることから生じる安心感や充実感、多くは集団的な充足の感覚に重点が置かれるようになるということだ。


「糾弾」についてはともかく、バッシングの場合には、バッシングする側の気持ちの根底にあるのは、自分の存在が空虚であるという感覚だと思う。
バッシングする人は、その攻撃の対象に対して空虚でないもの、つまり「充足」とか「充実」といったイメージを付与したうえで、それを叩くことによって、「充足しているのは自分(たち)だ」という実感を得ようとしているのかもしれない。
つまりここには、バッシングする側の欲望が深く関係している。


この、自分の存在が空虚であるという感覚は、少なくとも主観的には、そう感じている本人の責任ではないので、これをどう扱うかということはたいへんむずかしい。
「空虚/充足」という二分法が、たぶん間違っているのだが、そんなことを言っても・・。
たしかに、脅威の対象を過剰に攻撃することによって、安定や主体性を回復しようというのは、論理的には誤りだと思うが。
ただ、この目的のために、あえて脅威の対象を捏造するという場合があるので、これには気をつけたい。


とりあえず自分では、どんなに空虚であると感じられても、ある生にはそれぞれに固有の視角のようなものがあり、意味があるのだ、と思うことにしている。
そうしないと、限りなく攻撃的になってしまう気がするから。
問題は、そういう固有のものを、情報として伝え合えるような回路が、まだ十分にこの世界には作られていないことにあるのかもしれない。
もちろん、ここでいう「固有」とは、「個人」のような意味ではない。