社民党の離脱が突きつけたもの

社民党の政権離脱について、連立に際して安全保障政策のすりあわせをしなかったツケが回ってきたのだとか、イデオロギー重視の政党と連立を組むと「変節」という批判が出やすいから難しいとか、そういったことが言われている。


だが、連立離脱の理由というのは、非常に明快なことであって、鳩山政権が「基地は最低でも県外に」という約束を破ったからである。すりあわせも何も、そこで合意があったからこそ連立したのに、その約束を平然と破った。しかも、与党のみならず、当の沖縄にも何の相談もなしに、自分で勝手に決めた「5月末」という期日に間に合わせたような格好だけを整えるために、アメリカの言うことだけを聞いて、事を決めてしまった。
これが「変節」というしかないのは、イデオロギーとは何の関係もないのである。


そして、この「約束」というのは、ひとり社民党との間だけで交わされたものではない。
有権者、とりわけ沖縄の人たちは、この言葉を信じて投票し、また鳩山政権に期待してきたのに、それを裏切ったのだ。
その背信に対して、福島党首は、それを絶対に認めないという姿勢を貫くことで、鳩山首相に対しても民主党に対しても信義を通した、少なくとも突きつけたのだといえる。
大事なのは、ここのところだ。


福島氏は、自ら職を辞して、早い段階で政権離脱するという選択肢もあったはずだが、その道をとらなかった。
そして、鳩山首相の慰留にも拒絶を通した。
そしてその後も、参院選への選挙協力へのあらゆる妥協的な呼びかけにも応じないでいる。
ここではそれが、政治家としてのあるべき人間的な態度だからだ。


「変節」によって、社民党有権者ばかりでなく、自分自身を、自分の言葉を裏切ったのは、鳩山政権と民主党の方である。
こうした、政治家による自己の言葉への裏切りを、われわれ有権者は、自民党政権時代から、何度となく繰り返して目にしてきた。
われわれに、不安はあっても、政権交代を選択させたのは、決してマスコミや評論家が言うような軽薄な「ムード」のようなものではなく(それを作ってきた張本人たちが、よく言えたものだと思うが、それは表層の理由に過ぎず)、政治家・権力者自身が自らの言葉を裏切り、それによって人々の生活や生存までも弄んでいくかのような、空虚な政治の現実への怒りと危機感だったと思う。


たとえば、「最低でも県外移設」というような鳩山の言葉に、われわれはたんにその主張内容(政治の方向性)だけでなく、政治家が理念を掲げ、それに自らを賭していく態度、いわば政治家の言葉が生きたものとして働くような政治の実現を、一瞬夢見たのだ。
それこそが、「政権交代」を忌避し続けてきたこの国の政治体制が失った、民主主義のリアリティーと呼べるものだと、考えられたからだ。


だが鳩山と民主党は、結局は、この期待を裏切り、自民党の政治家たちと同じように、政治の言葉の空虚化の道、いわば政治と、人々の生活や生命というものとを切り離す方向を、選択したのである。
いま起きている、選挙目当ての「総理の首のすげ替え」云々の暗闘は、さらにそれに輪をかけるようなものだ。


福島社民党がやったことは、そしてやり続けようとしていることは、この「裏切り」を許さず、政治家の言葉の空虚化に抵抗を表明することによって、日本の政治のなかに人間的なものの場所を保持しよう、復権させ、さらには拡大させていこう、という試みである。
このことと密接に関連して、「沖縄」に対する差別への怒りということも出てきているのだ。


社民党がとるべき道は、この道を貫いて、「変節」した人々、いわば生命のある言葉を用いることを放棄したゾンビのような各党の政治家たちに、生命の方へ戻る拠点を確保するということだろう。
それは具体的には、民主党が自らの「変節」を正して、辺野古を全面的に放棄し、アメリカとの再交渉に臨む以外にはない。事実、鳩山政権は、一度はそれを宣言し約束したのだから。
それが実現されるなら、そのときはじめて、社民党が再び連立に戻る道も開かれうるだろう。
だがそうなっても、ならなくても、社民党は、この道を貫いて欲しいと思う。
いまのところ、日本の政治に、他に明確な希望は見当たらないからだ。


民主党や、マスコミや、われわれ有権者は、福島氏や、沖縄の人たちの、こうした人間的な態度の突きつけ、われわれ自身の、そして社会と国家の非人間的なあり方に対する、明白な拒絶と非難に直面して、なおもそれを無視し続けるのか。
いま問われているのは、まさにそのことだと思う。