「女性の存在論的な先行性」について

われわれが仮面を剥いだとしよう。そこから現われるのは女性なのである。(p358〜359)


上掲書の感想の続き。
この本を読んでいてすごく興味深かったことのひとつは、ラカンが「女性的」であるとした「すべて‐ではない」という論理のことだ。
「コギトと性的差異」と題された本書の第二章では、このことがカントの哲学との関連において論じられている。


ぼくが理解した限りでは、ジジェクは、カントの哲学の重要な意味は、考える主体を宇宙全体のなかに整合的に位置づけることが不可能であることを示したことにあると言っている。ジジェクは、「カント的主体」を『永遠の分裂を、「病理的」な衝動との永遠の戦いを、運命づけられた主体』(p052〜053)と定義し、こうした主体の分裂、空虚な主体という考えを受け継いで、さらにそれを徹底させたものとしてヘーゲルの哲学をとらえる。
このヘーゲル解釈は独創的なものだろうが、それはともかく、カント的な主体の、この分裂したあり方を示すものとしてジジェクはカントの「二律背反」をとらえている。それは、理性がその限界(経験の領野)を越えて進んでいったときに直面するもので、必然的に「宇宙は有限であり、かつ、無限である」といった二つの矛盾する結論に到達しまうことをいうという(p108)。


ところで、カントはそれを、数学的二律背反と力学的二律背反の二種類に区分したという。
ここはすごくややこしい話なのだが、ぼくにとっての要点は、次のようなことである。
数学的二律背反というのは、「非−全部〔すべてではない〕」という二律背反であり、二律背反をひとつの同じ時空、つまり「全体としての宇宙」のなかでとらえるという思考のあり方だ。数学的二律背反は、あくまで主体が経験する時空の内部で、いわばその内的な矛盾としてとらえて、この困難を引き受けようとする思考のあり方なのだと思う。

これは、われわれに対して、直観において語られる対象で、現象の領野に属さない対象など存在しないにも関わらず、この領野はけっして「すべて」ではなく、完結しないという逆説から帰結する。(p110)


これは、非常に居心地の悪い、苦しい思考のあり方だと思う。
これに対して、力学的二律背反とは、「普遍性の二律背反」であるといわれる。それは、〈全体〉としての宇宙を、現象の完結した全体性としてとらえ、「神」とか「魂」といったものを現象の彼方、つまり宇宙の外部にあるものとして考える。
ここでも矛盾(二律背反)が認識されているが、われわれが経験するこの世界の完結性は保持されているわけだ。その代償は何かといえば、このように形成される普遍性は必然的に「例外」をはらんでしまうことであるとされる。


ジジェクは、この二律背反の二つのタイプを、ラカンによる言説的な事実としての性的差異の形式化に重ね合わせるのである。
それによると、数学的二律背反は、ラカンが「女性的」と呼んだ「すべて‐ではない」という論理に重なる。一方、力学的二律背反は、「男性的」で、「例外を通じて構成される普遍性の逆説」に結びつくとされる(p113)。


この「すべて‐ではない」というラカンの用語は、以前からよく目にしてきたが、どうも意味が分からなかった。
本書におけるラカンの概念や理論の解説は、非常に巧みなもので理解しやすいものだと思うが、この語についてもそう言える。
上に述べたように、それは「例外」を作り出すことによって自分たちが経験する空間に普遍性をもたらそうとするタイプの矛盾(非整合性、空虚さ)への処し方ではなくて、自分たちが現に生きているこの世界の矛盾に満ちたあり方、より正確には、主体としての自分が世界のなかに整合的な位置を持ちえず、その分裂と永遠に戦い続けざるをえないという宿命を引き受けるような、矛盾への処し方だということだ。
「すべての対象がなんらかの原理のもとに包摂されるわけではない」ということと、「除外される何かが存在する」というのとでは、同じことを言っていても、論理としては違う。「すべて‐ではない」ということは、現実に生きているこの空間、この世界のなかにわれわれには直観できないような別の原理が存在しているという可能性を排除しない。
ジジェクラカンにならって、こうした世界への、世界と自分との分裂したあり方への(カント的な)対し方を、「女性的」と呼び、そこに「男性的」な普遍性の論理に先立つような重要な意義を見出す。


この本でジジェクが力点を置いていることのひとつは、ラカンの思想が、男性中心主義的であったり、エディプス的あるいは反フェミニズム的であるというような一般通念を覆すということだと思うが、ここでもなぜ、この「すべて‐ではない」という論理が「女性的」と呼ばれるのかが語られている。
「すべて‐ではない」の論理を「女性的」であると規定することが、女性の存在を男性に対する「欠如」とみなすものではないかとする一般的な批判に対して、ジジェクは、(言説上の)「女性」とはなんらかの実体ではなく、『実在する要素を「すべて‐ではない」にする』『非在の無』であると言い、『それ自身の存在論的な一貫性は持たないが、しかし、存在の充実に裂け目をもたらすこの無』であるとして、カント・ラカン的な空虚で純粋な「主体」と同じものであると述べている。
つまりそれは、ここでいう「女性」とは、われわれが自分自身として、いやそれ以前の分裂した純粋な主体として、この世界のなかでの生存を引き受けるあり方、それ自体の呼び名であるということだ。

ラカンの要点は、「すべて‐ではない」が〈すべて〉に対して、そして、〈限界〉が〈彼方〉に横たわるものに対して、論理的に先行しているということである。(中略)このような観点からするなら、切断された男としての女という、一見女性差別的な定義は、実際には、女性の存在論的な先行性を肯定していることになる。(p115〜116)