体制崩壊と「穴」

この本をやっと読み終わった。

とりあえず、感想をいくつか。


序のところで、ルーマニアチャウシェスク政権が崩壊したときのこと、報道された写真に共産主義の象徴である赤い星が切り取られた写真を市民たちが振っているのが写っていたことが語られ、その「穴」の場所、「主人のシニフィアン」が偶然的で人工的なものであることの証である「空白」を何か(たとえばネーション)によって埋めようとすることへの抵抗が大事なのだと書かれている。
「否定的なもののもとへの滞留」というヘーゲルの言葉は、この意味で引かれてるわけだ。
そして、最終章である第六章の最後のところで、再び東欧の現状に関する話になって終わる。じつは第一章から第五章までの、哲学や映画、オペラ、それにラカン精神分析理論を駆使した難解だが魅力溢れる論述と、最初と最後に出てくるこの政治的現実への言及、そして処方箋のようなものとが、どう重なり合うのかが、ぼくにはよく飲み込めない。よくよく読み返せば、分かってくるのか?だが、この本の文章はその全体にあたって、多くの示唆に溢れている。


政治的なこととしては、とくに最終章で、フレドリック・ジェイムソンが練り上げたという「消失する媒介者」という概念によって、東欧での体制崩壊民主化から資本主義的な新しいシステムへの移行の過程を分析している部分が興味深い。
これは、社会主義体制が崩壊する瞬間までは、「新しい社会運動、パンク、そして新左翼」といった人たちが民主主義への過程を触発し続けたのだが、新しい体制が成立するや否や、それらの勢力は跡形もなく消え去り、「なかったこと」にされてしまったというもの。それが消されてしまったということが、つまりは「序」に書かれた「穴」が埋められてしまったということでもある。
つまり、社会というものの本当の姿、生きていることの一番ダイナミックな像みたいなのが、そのとき(民主化されていく一瞬)垣間見えたのに、それはすぐさま消し去られ、強制的に忘れ去られてしまう。

つまり、円環が閉じるのは、新たな社会契約が必然性のうちに確立し、その「可能性」、すなわちそれを生みだした未決定の開かれた過程を不可視のうちに封じ込めるそのときである。社会主義体制はすでに崩壊したものの、いまだ新体制が安定を確保する以前、その間隙において、われわれは一種の開けを目撃したのである。事態thingsは一瞬可視的になり、直後には不可視になった。(p435)


さらに興味深いのは、東独の「新フォーラム」という体制崩壊直前に大きな役割を担ったグループを例にあげて、社会主義体制の衰退期においては、逆に社会主義イデオロギーを「真面目に受取る」ことが、重要な意味をもつとの指摘がされていることである。
つまり、「新フォーラム」は、共産党体制の崩壊をなし崩しの資本主義体制への統合としてではなく、(社会主義イデオロギーに基づく形で)「資本主義の諸制約を超えて達成されるであろう新たな社会空間」に達するための第一歩としてとらえようとした。
この一見大甘な理想主義的ビジョンを、ジジェクは非常に高く評価している。その理由は、次のようなものである。

他方、事実的内容(「言表内容」)については幻想であるとしても、新フォーラムの立場=構え(スタンス)は、その「スキャンダラス」で常軌を逸した言表行為によって後期資本主義に特有の敵対を踏まえていたことを示している。このことは、真理はフィクションの構造を有しているというラカンのテーゼを理解するための一つの方法である。すなわち、「現存社会主義」から資本主義への移行期の混乱の数ヶ月において、「第三の道」のフィクションは社会的敵対が忘却されることのない唯一の場所だったのである。「フィクション」、すなわち可能ではあるが不発に終わった別の〔オルタナティブな〕歴史についての「ユートピア的」物語というかたちをとりつつ、システムの敵対的性格を示し、それによってわれわれの確立したアイデンティティの自明性に「異和を導き入れるestrange」ような現存社会秩序内部の諸要素を指し示すこと――そうした「ポストモダン的」イデオロギー批判の営みの一例がここにはあるのだ。(p440)


つまり、社会主義であれ資本主義であれ、現実の社会システムがその「敵対的性格」を隠蔽・忘却させる(「穴」をふさぐ)ことによってシステムとして、また抑圧装置として十分に機能するのだとすると、一見夢物語のようなビジョンを語り、それにこだわることは、このシステムのもとにおける「社会的現実」というフィクションの虚構性を暴き、われわれが他者と今生きている本当の有り様を人々に自覚させる契機となりうる。
「理想を語ること」が、システムの語る夢物語の虚構を暴く効果をもつ場合があるということが、ここで示唆されてるんじゃないかと思う*1


じつは、これらのくだりは、最終章のなかでジジェクが書いてることのなかでも、わりに分かりやすい部分である。
そのほか、たとえばクリントン的な「新世界秩序」と結びついたリベラル・デモクラシーが、東欧諸国でのナショナリズムや、「原理主義」の台頭に対して無力であることを批判する部分では、このリベラルなまなざし自身が「〈他者〉の排除に基づいている」のだという認識にはうなづけるところがあるが、それに対して具体的にどうオルタナティブを出せるのかということが、ぼくにははっきり読み取れなかった。


このほかの章や箇所に関しては、また別に書きます。

*1:現存の社会的なシステム(幻想)の基盤と存在理由が、現実(世界)が主体にとって整合的なもの(つまりシステム)ではありえないという「トラウマ」を回避することにあるというのは、ラカンジジェクの理論においては根本的な考え方のようだ