関係について

政治的な場でも、性愛においても、またたぶん家族のなかでも、人間同士が関わるということは、そこに権力闘争的な要素が生じる。精神分析的にいえば、欲望による想像的な闘争の場が生まれるのだ。
それは、人間の生を関係にむかって活性化させる役割をはたすが、それだけで突っ走ると破壊や消耗が激しすぎて関係が維持されなくなるので、「思いやり」や「配慮」と呼ばれるような理念的な次元の介入が必要となる。
というよりも、この次元はもともと存在していた、とみるべきかもしれない。


だが、ここでひとついえることは、たしかに理念的な次元の介入による、いわば「二重化」がなければ関係は持続されえないと思うが、だからといって欲望の次元が嘘だというわけではないことだ。
この二つの次元、というか世界は、どちらも生にとって「本当」なのだ。だからこそ、理念によるこの介入は、非常に現実的な重要さと困難をはらまなければならない。
そして、関係をめぐる、この二つの次元は、どこで分かれているのか、それらはじつは同じものではないのか。


カントの思想は、こういう問題を具体的なテーマにしていたのではないかと、ぼくは思っている。
また、映画『ヨコハマ・メリー』を見たときに感じたことも、それに関係していると思う。