「テレメンタリー2006 消された遺骨〜朝鮮半島出身者の遺骨問題を追って〜」

この番組は、関西(朝日放送)では土曜日の夜に放送されたが、テレビ朝日では11日深夜の放送になるらしい。
http://www.tv-asahi.co.jp/telementary/


すでにご覧になった方もあるだろうが、おもに戦争中に徴用や強制連行、また仕事を求めて朝鮮半島から日本に渡ってきて、戦後も日本で暮らすことになり、故郷に帰ることなく日本で死んでいった人たちの遺骨をめぐるドキュメンタリーである。


この番組でとりあげられた77体の遺骨は、「無縁仏」として名古屋市内に安置され、名古屋市の外郭団体がそれを管理していたのだが、朝鮮人に関してはあらためて遺族探しがされることなく粉砕処理された。そのことを知った在日の民族団体が韓国政府に遺族探しを依頼したところ、ただちに9遺族が判明した。そのうち、6人分の遺骨は、すでに粉砕されてしまっていた。
そういうことらしい。


率直に言えば、身元の分からない遺骨を粉砕処理するのは、仕方がないことなのかもしれない。
だが、朝鮮・韓国の人の遺骨に限って、遺族探しを行わなかったというのは、どう考えてもひどい話だ。遺骨が粉砕されたということは、どれが誰の骨か分からなくなってしまったということだから、返還することもたいへん難しくなる。
遺族はたまらない気持ちだろうし、そもそもこの人たちがなぜ日本に来ることになったのか(警察に無理やり連れて行かれたという話をする遺族の人たちもいた)を思えば、腹立ちがおさまらないのは当然だろう。


たしかに、遺骨は死んだ人そのものではない。
死んだ人を象徴するものではあるが、それはたんなる物質だ。だから、遺骨という、そのたんなる物質に、特別な意味を持たせるということには、慎重であるべきだろう。
だが、その死んだ人を象徴するもの、しかも生きていた間は間違いなくその人の生きた存在の一部をなしていた物質の扱いが、あまりにもいい加減では、それは「死者を」でなく、生きている(生きていた)人間をないがしろにしているのと同じではないか。
だからこれは、たんに宗教的とか、象徴的な問題とは違うところがある。そういうことを越えて、生きている人間たちに直接働きかける事柄になってしまうのだ。


もうひとつ、この番組で考えさせられるのは、多くは70年代や80年代に死んでいったこの朝鮮の人たちが、日本でたどった生の軌跡についてである。この人たちは、戦後の日本でどんな人生を歩んだのか。
多くの遺族は、亡くなるまでの長い期間に、ごくわずかな手紙しか受取っていないらしい。また、遺族のもとに知らせをもっていっても、「もうほっておいてほしい」といって関わりあおうとしない遺族もあるそうだ。
悲しみや怒りを表明する遺族もだが、肉親の死の知らせに接しても、そのような反応を示す人たちの存在に、人々が過ごしてきた時間の長さと重さを感じる。


番組でおもにとりあげられていた遺族(故人の息子)は、韓国からやってきて、父親が息を引き取った場所を目のあたりにする。その父親は、80年代に名古屋市内の路上で亡くなっていたのである。
遠い日本で、便りもほとんどないままに独り暮らし、年老いて最後は住む部屋もなく、路上で息を引き取った父親の人生を思って、その最後の場所で呆然と立ち尽くす息子。
「父は、日本でどんな人生を送ったのでしょうか」というようなことを呟いていたと思う。


ほんとうは、生きている人間、生きられた人生の軌跡こそが重要だ。
その人がどのように生き、そして死んだのか。遺族がほんとうに知りたいのは、そして目を閉ざしていたいのも、そのことだろう。
遺骨が生きている人間に訴えかけ、動かそうとする力を持つとすれば、そのメッセージは、知らされること、知られることのなかった生の姿に、目を向けよという声なのかもしれない。