きのうのエントリーへの補足

きのうのエントリーに付いたブックマークの内容が、ちょうど自分も引っかかってた部分だったので、少し触れておきたい。


ひとつは、自分の文章のこの部分だけど、

暴力の黙認が、人の心をますます硬くして、全体に対する耳障りな「少数の声」への暴力性を高めるということになるわけだ。


と書いたところは、自分でもずいぶん言葉をはしょった感じがした。
声が「耳障り」なのは、たしかにそれが「少数」だからではない。「言葉をないがしろにするな」、「暴力を黙認するな」、「黙認していることをごまかすな」という意味内容を、そのメッセージが持っているからだろう。
そういう声を押しつぶそうとするところに、テロル、つまり恐怖による支配というものが成立する。
現実の社会は、「支配/被支配」の非対称的な関係のうえに存在しているので、それを離れて一般的なメカニズムを語っても仕方がないのだ。
重要なのは、いま抑圧されようとしているのはどんな声か、ということだろう。
今回の事件は、その大枠に沿うものであったからこそ、批判されねばならないのだ。


それとは別に、事件を起こした個人のレベルに関していうと、やはり複雑な気持ちがある。
やはりこう書いたことは、

むしろ、追いつめられれば、そういうことをしかねないのが人間だ。
今のような社会だと、思想的なことばかりではなく、そういう気持ちになる人は少なくないと思う。
これはぼく自身も、まったく気持ちに覚えのないところではないので、そういうしかない。


少し説明不足だったと思う。
ぼくの場合、分かるように思うというのは、実力行使をすることについてではなく、今回の犯人と見なされている人は自殺を図ったようだが、自分の生をそのように何か意味づけして終わらせたい、と考えるときがあるということだ。
これは、生きていても先が見えないというだけでなく、生きてきたこと、生きていること自体にはっきりした意味を見出せないというもどかしさによるものかもしれない。
するとそれは、自分が信じる「正義」や「大切なもの」の内実によっては、たいへん極端な行動になりかねない。
そういう行動に対する共感ということではないけど、自分がそういうところに追い込まれるかもしれないという怖さはある。


現在入院中の人物は65歳ということで、最後に自分の腹を切ったらしいということに、「勇猛」とか「怖い」ということよりも、何か悲愴な感じがする。
家族はいたのだろうか、などとどうしてもあれこれ想像してしまう。


それに関していうと、きのう読んだこの記事のなかで、鈴木邦男が、いまの右翼運動界の雰囲気について、『活動家に『体を張らなければいけない』と思わせる空気がある。』と語っているのは、すごく分かる気がする。
「右翼も左翼も」と簡単に言ってはいけないのだろうが、活動家が、つまりある意味で真面目に現場でやっている人が、異常なほど追い込まれる社会になってきてることは間違いないだろう。
社会の大幅な変化、まだその意味がはっきり分からないような、大きな変化というものが、その根底にあるのだろう。
とくに政治に関係した世界だと、自分の存在価値が揺らいだように感じられたとき、死に向うような「勇敢さ」を示すことでしか、自分にも他人にも、自分の確からしさを証明できないとする考え方が、まだ根強い。年配の男性なら、なおさらそうだろう、とも思う。
そうやって追い込まれるように死に向っていく。
こういう事件というのは、個人レベルでみると、社会全体の歪みから来る圧迫に対して、感じやすい人があげる悲鳴のようなものかもしれない。
それだけに、こういう出来事は、これからもっと増えていく気がする。