加藤氏実家炎上のこと

ブログが「炎上」するぐらいならいいけど、ほんとに家が焼かれてしまったのではたまらない。ほんとに怖い時代になったもんだ。
「テロに屈せず」と一つ覚えのように繰り返してきた首相は、かつての盟友の危難にどんな言葉をかけたんだろう。「それでも信念を貫け」と言ったのか。


腹を切って病院に担ぎ込まれた男は、右翼団体幹部と報じられたが、そうでなくても「思想的背景」は、そりゃあ、あるだろう。
この報に接して、社会が閉塞していく危機感や恐怖心を持たないほうがおかしい。
自分が家を焼かれてみろというのだ。


どういう時代にも、自分と意見の違う人の発言や存在自体が気に食わず、暴力に訴えて事柄を解決しようという人はいる。
9・11」以後、「テロ」という言葉が権力側に都合よく、「悪の代名詞」みたいに使われるようになったことが示すように、そういう行為を世の中から無条件に一掃してしまおうという発想は、かえって危ないものを含んでいる。
むしろ、追いつめられれば、そういうことをしかねないのが人間だ。
今のような社会だと、思想的なことばかりではなく、そういう気持ちになる人は少なくないと思う。
これはぼく自身も、まったく気持ちに覚えのないところではないので、そういうしかない。


だが問題なのは、そういう人間が起こす行動を利用して、世の中に恐怖や、自他の暴力に対する無力さの雰囲気を蔓延させた方が、都合がいいと考える人たちがいることだ。
そのためには、そういうことをあえて支持する必要はなく、なんとなくやり過ごして強く言及しなければそれでよい。発言力のある人がこれを行う場合、暴力行為そのものよりも、世の中にあたえる効果はよほど絶大なのである。


今回、ぼくがもっとも恐ろしいのは、政治家もマスコミも、こうした暴力行為を非難する明確なメッセージを発しないことだ。
こういうときよく、「個人の言論の自由は守られるべき」とか、「政治家たるもの、こういう事態に直面する覚悟はあるはず」とか、一般論が言われるが、暴力や脅迫にさらされる当人が必要としているのは、発言力のある人の「やめろ!」という一言だろう。
一般論ではなく、切迫した、感情的であるほどの明確な意志を帯びた言葉が必要である。
そういう声が聞こえてこないのが、ぼくなんかには一番怖い。


「これはいけない」と、発言力のある人、力や知恵があるとみんなに思われている人が、はっきりといわなければ、こういうことは仕方のないことなのだと、みんな無意識に感じるようになる。
それは、暴力に流されるということ、他人の暴力に屈するばかりではなく、自分のなかにある暴力的なものに屈して、倫理や感情や言葉を忘れ、短絡的な情緒や行動や、そして世の中の流れに対する無力さのなかで生きることの方が妥当なのだと、みんなが思ってしまうことである。
それが、テロがもたらす「暴力の支配」ということの意味なのだ。


そういう状況を、社会のなかに作り出すことに、多くの政治家もマスコミも力を貸している、いやむしろ主導しているという感じがする。
この意味で言えば、テロを本当に行っている者、社会を恐怖によってコントロールしようとしているのは、権力を持った人たちだ。
ぼくは、そう思う。


マスコミも政治家も体制批判をしなくなり、国の政策と社会の雰囲気がだいたい揃ってきて、それが過去や現在や未来の戦争や暴力を容認する方向へと向かいはじめると、そのことに異を唱える者への暴力は増えるだろう。
それは、暴力は肯定されてよいのだ、暴力の行使は「仕方ないこと」として黙認されるべきことなのだという気持ちが、社会の成員全体を覆うようになるからである。
その気持ち、雰囲気に逆らうことは、その人自身のあり方を息苦しくさせてしまうので、よほどのことがないと個人がそれに歯向うのは難しいのだ。
そして、そのようにして暴力を黙認したということ、そのこと自体が、人をますます頑なに閉じこもらせ、そういう自分を非難していると思われる人々への暴力・攻撃の度合いをエスカレートさせる。
暴力の黙認が、人の心をますます硬くして、全体に対する耳障りな「少数の声」への暴力性を高めるということになるわけだ。


今回のような事件がもたらす、一番深刻な心理的影響は、たぶんそれだろう。
それは人々の「やましい気持ち」に忍び込んで、それを後戻りできないところまで硬直させ、暴力のなかに押しやってしまうのだ。
言葉や柔軟な感情をもたずに生きることが正しいことであると、自分自身を押し殺して思い込みたいという人々の気持ちを是認し、ますます強化させていく効果が、今回のような事件とそれに対する世間の反応の薄さにはある。


実際、そうならないと生きられないような時代になりつつあることは事実だけど。
ぼくの心も、半分以上乾涸びつつある。